今日のよしだのダーリン

どうもこんにちは、よしだじゅんやです。先日歯にセラミックを埋め込みました。僕は元気です。

 

さて、今日は会社の同期の森さんについて書いてみようと思います。理由はさっき散歩していたら偶然彼のことを思い出したからです。本当にね、おかしな人なんですよ。先にいっておくと、僕は森さんのことが大好きですし、彼の幸福をこころから願っています。

あなたの身の回りに、心から幸福になってほしい!と思える人がいますか。親のような特別な関係性の人間は抜きにして、君が生まれてから仲良くなった人の中に。

僕はというと、他人の幸福を願うことはまずありません。だって、自分の幸福を追求することで精いっぱいだから。女の子とエッチしたいし、おいしいご飯を食べたいし、毎月5000兆円ほしい。そのためなら、他人の不幸を気にしないゴミくずみたいな人間なんですよね。みんな知ってるからさして驚かないでしょう。

 

もし、森さんが幸福にならなければ、世の中はフェアじゃないと思うのです。森さんくらいすがすがしいほどの性善説で生きているひとを僕は知りません。「性善説」というのには、段階があり、種類があります。ちなみに僕も性善説でいきているタイプの人間ですが、ちょっと森さんは異次元なんですよね。

「人にやさしくしよう」という気持ちを持つひとには二つのパターンがあると思います。「人に嫌われたくないから、優しくしたい」と「よくわからんけど優しい」です。ダーリンのあやべが前者にあたりますね。これに該当するひとは体感的に結構な数がいるようです。ようは、他人を意識して自分の行動をあとから決めている人です。あやべは自他ともに誠実であるのが長所であり短所でもあるんですが、それは自発的にそうなったのではなく、後天的にそうなっていったのですね。それに対して「よくわからんけど優しいらしい」というのは、自分でもよくわからずに優しくしてる人です。生まれながらにして優しい人です。

ちなみに僕は「世界人類が幸せであってほしいけれど、目の前に泣いている人がいてもなんとも思わない」というタイプの優しい人間です。巷では「サイコパス」と呼ばれているそうです。

 

そんな異次元レベルの性善説で生きてる森さんですが、彼こそ幸福であってほしいと願うのは、フェアじゃないと思うからです。つまり、つりあいがとれていないのです。生粋の優しい人あるあるですが、自分が損をしても「損をしている」と気がつかずにずっとニコニコしていがちです。はたから見ていて辛くなるので、僕の精神安定のためにお願いだから森さんには幸福であってほしいのですね。

 

今日ね、森さんに飲みのお誘いをしました。

「明日のみにいきませんか?」

「事業部の顔合わせの飲みを断ればいけるよ!」

「いや、それは事業部を優先してよ、、、、、」

という会話をしました。僕なら「事業部の飲み会あるからまた今度ねー」と返信しちゃう。けど、森さんからすると、僕と飲みにいけるかもしれない可能性がわずかでも残っていたら検討をするんですね。なんで? で、「じゃあ事業部ののみを断ってください!」って冗談でいうと、たぶん森さんは「わかった」と一つ返事で事業部の飲みをパスしちゃうんですね。まじでなんで?

優しいのではなく、自分の意志がないと言えるのかもしれない、あるいは興味がない分野では意欲があるひとに判断をゆだねるようにしているのかもしれない。意志がないというやさしさ、意志がないという寛容さなのかもしれない。それなら僕でも納得できる。このタイプの人間は主張をすることがないので、存在感が薄くなりがちなのだけれど、だからこそ安心して近くまで抱え込めることができるし、安心して本心を話すことができる。

森さんという人間は、会社に出社するたびに女の子と仲良くなっていて、クラスの男たちから白い目で見られたりしています(僕もその一人です)けれど、森さんは童貞だったりします。それは、意志のない寛容さだからかもしれない。女の子と自分の間にある最後の薄い壁をこえるには、あるいみで馬鹿みたいに盲目的で情熱的にならないといけないからだ。そういう意味では僕と森さんは似ているのかもしれないですね。僕は主張の強い人間なので、彼にずいぶん多くの無茶をなげかけます。森さんはそれを黙って受け止めています。まるで卵をなげつけられる壁のようなものです。同時に、意志のない寛容さゆえの停滞感を僕は彼と共有しているのでしょう。さて、森さんは僕との関係性のなかで、何を得ているでしょうか。フェアじゃないんです。

 

今日も読んでくれてありがとう。どの時期をきりとっても僕は意志のない寛容さをもつ人が近くにいた気がする。あらためて考えてみると、言い訳ではなく、彼らは生きているだけで幸せという顔をしていたりする。