今日のよしだのダーリン

こんにちは。よしだじゅんやです。先日三日間東京に行ってきました。来年から住む場所を決めるためです。まず、東京の地図を買います、路線図も載っているやつです。その地図をみて、だいたいこのあたりなら通勤しやすそうだなと目星をつけます。その後はレンタサイクルで二日間かけて街をただぐるぐる走り、街の雰囲気を見て回りました。

 

この話をすると、変な物件の探し方ですね。と言われる。多くのひとは、会社から近いとか、物件の値段とかで決めるのです。それに対して、僕は街の雰囲気が自分とマッチしているかを重要視して決めることにしていました。定量的というよりは定性的な判断ですね。価値観は人それぞれだけれど、僕としては、自分が生活する場所を、歩いたり目にしたりせずによく決められるな。と思ってしまうのだよね。せっかくなら、落ち着く場所の方がいいし、住むだけでわくわくするほうが良いじゃない。

 

僕が街に求めるものは、「生活の匂いがあること」「余剰を受け入れる風土のあること」でした。前者は、わかりやすくその通り。ファミリー層が腰を据えて生活をしており、年齢層の偏りがなく、手の届く範囲に生活必需品が手に入ること。などが挙げられる。住みやすさ、というのは作るものではなく、そこに住んでいる人が時間をかけて自然と形作っていくものだと僕は思う。なので、街に住む人々を見れば、ある程度住みやすいかというのはわかる。

余剰というのは、僕にとっては文化のことだ。劇場があったり、本屋があったり、個人の雑貨屋さんやカフェがあったりということだ。当然のようにそれらがあれば生活に潤いが満たされるだろう。それに加えて、街がそのような余剰物を受け入れるということは、街自体に余裕があり、そこに住む人々にも寛容であるということだ。

なので、街を見るとは、そこに住む人々みることであり、カフェや本屋みたいな文化を肌で感じるということだったりするのだ。ね、レンタサイクルで街をみるべきだろう?

 

という感じで、街をまわった結果、神楽坂が最高でした。神楽坂には行ったことある?あの、ご飯屋さんがひしめき合った坂。あそこを登りきると、なんとも静かで歴史のある街が広がっているのです。もうね、そこの街に僕は惚れ込んじゃった。

まずね、公園がいい。僕にはわかる、会社の帰りにこの公園によって氷結をのみながら泣いている姿までわかる。ちょっと文章が煮詰まってお昼間に散歩に出かけるのもいいね。公園には子供連れの主婦や日光浴に来ている高齢者の方がたくさんいて、ずいぶんのんびりと各々の時間を楽しんでいる。それと、昔懐かしの遊具がたくさんあった。アスレチックとかシーソーとか球状のくるくる回るやつとか。地元の公園では危険遊具扱いをされて早々に撤去されたんだけれど、ここには手つかずに残っている。遊んでいる子供たちも、みているこっちが心配しちゃうくらい勇敢に遊具を使いこなしている。その姿をみてちょっと嬉しくなってしまった。自分は絶対にけがをしないから大丈夫。と盲目的な過信がるからこそ、すいすいと乗り越えていける。その姿が懐かしくもあり、心地いい。

 

公園のほかにも、僕の好きなかもめブックスもあるし、なんかよくわからん2坪くらいの猫の店があったり、やけに食パンがうまそうなパン屋があったり、はちゃめちゃに落ち着く味の中華料理屋があったりね。どれも、僕はここに通うことになるんだろうな。としみじみと感じるのだ。仕事帰りにこのパン屋で食パンを買うのだな、とかこの中華料理屋でメンマをつまみに瓶ビールを飲んでいるのだろうな、とかね。自分がその街に住む姿が想像できて、ずいぶん満足しているのを想像すると、嬉しくってたまらなくなる。これは、企画でも就活にも言える話だが、喜んでいる自分が想像できるものは、大概良い選択である。それに、ちょっと間違えても、しかたがないと目を瞑ることができる。

神楽坂という街は、身を置いて時間を共有すればするほど、将来の喜びが湧き上がってくる街なのでした。なんなら、自分が死んだ後の様子も想像できちゃう。「神楽坂を愛した文豪」とかに名を連ねて、居酒屋に写真が飾られたり、本屋さんにそっと面陳されていたりしてね。もう、嬉しくってたまらないわけよ。これは、住まなければならないな。

 

今日も読んでくれてありがとう。東京に来た時は神楽坂を案内します。みんなも神楽坂ラバーになろう。一緒に名を連ねよう。