休日のゆうかのダーリン

大切な友達がいる。
大学の同期で、年は2つ上。西洋音楽経験者だらけの学科に、小鼓で合格した。
彼女は能を学んでいて、西洋音楽は殆ど学んでいなかったようだ。和声、副科ピアノ、そういう私にとって生まれた頃から慣れ親しんできたものと、毎日悪戦苦闘していた。一方、私が足を踏み込んだことのない世界のことをたくさん知っていた。

人のために、自分を極端に犠牲にしようとする子だった。普段の会話でも誰かが何か少し不利な状況になると、出来うる限り自分を下げて、友達のそのままの姿を肯定しようとしてくれる。あまりにもそれが極端で、たまに「さすがにそれは無理があるよ」とか思うんだけど、そんなこと指摘したら泣き出しちゃうんじゃないかと思うほど必死だから、そんなひどいことは彼女に言えなかった。
だって例えばさ、「うわ靴汚かったわ今日。くさそう」「うわほんとだ!洗いなよ〜」「それな〜」みたいな会話してる時に「でも靴を履いてこられるなんてすごいよ!私なんて草履だもん、ほら!」と言ってくるような、それくらい必死なんだよ。彼女は、自分ではない誰かが評価を落とされてるところに居ることが凄く怖かったんじゃないかと思う。

彼女の家には色々なものがあった。それでいて、食器も食材もほとんどなかった。生きるためには必要のない、いとしいがらくたたちがひしめき合っていた。ビアズリーや月岡芳年の画集、仏教の学術書、ヨーロッパの絵本の原語単行本。謡曲や長唄の譜面、三味線、龍笛、作務衣、小さな仏像、アルコールランプ。知らない漫画、日本音楽の学術書、入門書、装束の本、大量の文庫本、数珠、蛇の皮。
わたしは彼女の家を訪ねては、夜通し隠れ家を探し回るようにして遊んだ。音楽をしたり、本を読んだり、語らったり、テレビを見たり。お酒の飲めない彼女は私が来るといつも瓶のお酒を開けてくれた。「実家から送られてくるんだよ!」と言っていたけれど、お酒の飲めない彼女にそんなたくさんのお酒を送るかなぁ。本当は買ってきてくれたんじゃないのなんて問いただしたら、彼女は壊れてしまいそうだった。

大学二年生の夏、ハードな学祭の実行委員を終えると、彼女は学校に来なくなった。
寂しいし心配だったけれど、連絡を取るすべもなかった。彼女はガラケーだったし、SNSもやっていなかった。
冬になると風の噂で、お坊さんになったらしいよと聞いた。消息がわかったことの安心と、私たちが彼女を何らかの形で追い詰めてしまっていたのかなというこごりみたいなものが残った。

大学三年生の秋、一年ぶりに帰ってきた彼女は、髪の毛がすごく短くなっていた。久しぶり!と笑う彼女はあまり変わったように見えなかった。

1年休学した彼女と同じく、私も半年間の休学の末5年生で大学を卒業した。彼女は卒論を書きながら仏教の勉強を進めて、お坊さんになるための大学に見事合格した。
卒論と受験勉強の兼ね合いがなかなか面倒くさいこと、やばいやばいと思って必死で勉強してたけど周りのレベルが意外と低くて安心しつつもガッカリしたこと、彼女は前より自分のことを少し話してくれるようになった気がした。

卒業式の直前、彼女は次の大学の近くに引っ越すことになった。新居に来て以来、とにかく前の家がなつかしくて寂しくて、なんだか落ち込んじゃうんだよねえと彼女は笑った。あの隠れ家のような神秘的な部屋がなくなっちゃうんだなと思うと、わたしもなんだか後ろ髪を引かれるような思いがした。人の家なのにね。

卒業式の日、夜が遅いので彼女の新居に泊まらせてもらうことになった。振袖やドレス、大学からの解放感と全身の疲れを引きずって彼女の新居を訪ねた。
引っ越したばかりで、段ボールが積み上げられている部屋の中からふとんや床敷き用マットレスを引っ張り出した彼女は、ゆうかちゃんはぜひベッドで寝てね!わたし床で寝るの好きだから……と言う。流石にそんなわけないと思う。でも私も床で寝るのめっちゃ好きだよ!と張り合うのも違うよね……うーん困ったな……彼女はいつもそうなのだ。じゃあ遠慮なく…使わせていただくね……ありがとう……。

目が覚めたのは4時すぎ、微かに朝の予感がする仄蒼い部屋で、聞きなれない音が聞こえたからだ。耳をすませて音の出処を探って驚く。
嗚咽だった。床に敷いたマットレスの上で、毛布にくるまって彼女が泣いていた。
なんで泣いてるんだろう?私が来て嫌だったから?それなら言ってくれればいいのに、いや、卒業が悲しいから?引越し先が寂しいから?そういえば寂しいって言ってたもんな。でもこんな、人がいるのに我慢出来ないくらい悲しいことってあるのかな?わからん。もしかして親族に何かあったとか?私いて大丈夫かな。どうしよう。声掛けた方がいいかな。どうしたの?いや違うな、起き抜けを装うか?声掛けない方がいいかな、どうする……?
いろんなことが頭を駆け巡って、一瞬で目が覚めた。
でも泣いてる彼女が泣いている理由を聞くのが怖かった。というか、彼女にどうしたの?と聞いて、原因が例えば私に関することで、いや関することじゃなくても、彼女が自分の泣いていた理由を私に説明するとき、それがもし私が傷つく理由だったら彼女はきっと必死で自分の何かを犠牲にしてしまうかもしれないと思ったら怖かった。
結局、彼女の嗚咽を聞きながら息を殺していたら、知らない間に眠っていた。七時過ぎに起きたとき、彼女はいつもの笑顔で「おはよ〜。寝られた?」と笑う。あの不思議な時間に、夢でも見たのかなとすら思った。

彼女は卒業式の後、復学してからまた伸ばしていた髪をばっさり剃った。あれから1年になるけれど、まだあの時のことを彼女に話せない。