昨日、はちまきとふたりでご飯を食べに行った。はちまきと築くふたりの空間は初めてだった。
この前、ろうの先輩がTwitterで「私は家族全員がろう者だから、健聴者との会話のとき、完全に理解できないことに慣れない。」というようなことを呟いていた。それに対して、わたしは違和感を持った。
わたしは健聴者の親を持っているけれど、理解できないときがあることを仕方なく思ってるわけじゃないよ、ってね。
で、昨日はちまきはこう言った。
「私は健聴者と同じように聞こえるわけでもないし、ろう者のように手話で会話できるわけじゃない。だから、どちらの世界でも孤独に感じている。」(過去形かも)
確かになあ、と思った。わたしは聴覚障害がわかったときから手話を使っていて、家族内でも手話で会話している。心の拠り所があるというか、必ず100%理解してくれる相手がいるという安心感のもとでスターバックスという場所で働けているのかもしれないと。
でも、わたしは聞いていないふりをよくする。
2人以上の健聴者と会うときは、2人ともきっと慣れないコミュニケーション方法にすこし疲れてしまうと思うし、2人で気楽な方法で話したいときもあるだろう、と思っている。
だから、2人で話しはじめたら「興味ないよ」というふうに顔を背ける。
2人にはわたしを気にせずに話してほしいとも思うけれど、すこし寂しい思いもする。わたしがもし耳が聞こえていたなら、わざわざペンをとって紙に書くまでもないこぼれ落ちた言葉を拾えたのかなあ、と思うと非力さを感じる。
自分が聞いていないふりをするときは、わたしに気を使いすぎないで!というメッセージでもあるし、ちょっと寂しい!というサインでもある。
そう考えると、わたしはすこし慣れてしまったのかもしれない。会話の内容がわからないことに。スターバックスでのアルバイトだって、バックルームでは周りにあまり話しかけられないもん。きっと話しかけづらいオーラをわたしは出してしまっている。
「気遣って話しかけるぐらいなら、話しかけないで!」って拒絶する自分がいるから、それが健聴者との間の壁になっているのかもしれないなあ。