雨の日の朝早くだった。母が車を運転して送っていってくれる。どこへ向かっていたのか、今ではもう覚えていない。ただ、あの日の踏切は、通勤時間で急いでいる車の列をあざ笑うかのように、意地悪く遮断機を上げ下げしていた。黄色と黒に交互に塗られたバーは、電車が来る気配がないのに下がったかと思えば、今にも踏切に電車の鼻先が達しようというのに上がり始める。
母が車を踏切内に滑り込ませた時も、どこか異常であった。今に通り抜けるという時に、黄色と黒の遮断機が車の前に通せんぼした。どうやって踏切から車を出したものか、まごまごしているうちに赤い列車の先頭が左側から迫ってくる。アクセルが踏まれる。あっけなく、踏切からバーをもぎ取るようにしながら、車は踏切を出た。私はただ助手席で、息を詰めて見守ることしかできなかった。ひしゃげたバーが後ろに取り残されているのが見えた。
「踏み切り直してこなきゃ」母が車を道の脇に止めながら言う。
「私が行ってくるよ」と、とっさに私は車を飛び出していた。後続の車が詰まってしまったら大変と思ったからだ。
だらりと垂れ下がったバーを元通りにするのは簡単だった。周りに気をつけながら車に戻ろうと振り返る。水色のアクアが100メートル先に止まっているのが見えた。そこまで走っていこうとするのに、なぜかうまく走れない。夢の中にいるみたいに。水の中にいるみたいに。
母の車だと思った水色の影は、違う車であると判明した。すぐに戻るつもりでいたのに、思いのほかぐずぐず時間がかかってしまっていて、もしかしたら母は先に家に戻ってしまったのか。それとも、さっきのY字路で右側の道を選ばないといけなかったのだろうか。連絡をとろうにも、スマホも何も持っていないことに気づいた。カバンを車の中においてきてしまったから。
私は道路に立ち尽くした。なにか、おかしい。なにか、私は間違えてしまったのだろうか。
それでも、途方にくれていたのはほんの短い間だけ。あたりを見回すと、家からさほど遠い場所ではないと検討がついた。この道を下って行ったら見知った銀行が見えてくるはず。そこから歩いて帰れそうな気がする。
雨がしとしと降る中を私は歩き始めた。
道は高架の下をくぐり、竹林の中に続いていく。途中で銀行らしき建物の頭と、見たことがあるような酒屋さんが見えた気がしたけれど、それも竹林の向こうに見えなくなってしまった。道はいつしか石畳に変わり、途中でぽつぽつと立つ家も農家の様相を帯びてきている。この道ではないかもしれないと思いながら、私は引き返すことはおろか、足を止めることもできないでいた。何かに追い立てられるように、先へ先へと歩き続けた。
雨で濡れた丸い敷石に足を滑らせながら、私は斜面を登っていた。登れば登るほど角度は急になっていく。もうこれ以上登ったら、ロッククライミングをしなければならないというほどになった頃、そこで9歳くらいの活発そうな女の子に出会う。なぜ9歳と、ドンピシャリ言い当てられたのかというと、私もその時9歳だったからだ。事実、2人の背丈は同じくらいだった。
私は尋ねた。
「この近くに銀行ってない?」
「向こうの方にあるよ」と女の子は答える。
それから、今しがた登ってきた坂道を2人で一緒に下っていった。女の子のことを私は心の中でリラと呼んだ。私が音を上げそうになる急な坂を、リラはこんなのへっちゃらだと言わんばかりにひょいひょいと進んでいく。リラの足はカモシカみたいに岩場に適したひづめになっているのではないかと、思わず疑ってしまった。けれども、軽い靴に包まれた足は厚めのフェルトの靴下を履いているだけで、やっぱり人間の子どもの足なのだった。
行けども行けども石畳の道は下り続ける。私たちは歩き続け、ついに竹林が開けた。そこで私は、沖縄の海くらいに真っ青な色をした水を目にする。実際沖縄なんて行ったことがないんだけど、何にたとえていいかわからないくらい鮮やかなブルーだったのだ。その時には空はすっかり晴れていて、水は太陽の光を反射して眩しく光った。
リラは靴のままちゃぷちゃぷと水の中に足を踏み入れた。私も同じようにした。ひんやりとした水はひざまでの深さでしかない。随分浅い湖なんだなと驚いたけれど、どうやら水の中に道があるらしい。浅瀬の道をリラはちゃんと知っていて、彼女について私は湖を渡り始めた。
「ここには化け物が出るから気をつけて」
私が水の中の魚影に見入っていると、リラが警告するように行った。初め小さな鮎くらいの大きさだった青い影は、みるみるうちにカジキになって迫ってくる。このままぶつかるかと思ったら、私たち2人にしぶきを浴びせて方向転換し、ゆうゆうと泳ぎ去った。青いヒレが水面から突き出ているのが見えた。本物の生きている魚ではなくて、水の体を持った化物なのだ。
遠くに大きな鯨が身を横たえているのが見えた。今リラと私が歩いている浅瀬の道は湖の真ん中を突っ切っているけれど、あの鯨がいるところは途方もなく深いのではないか。深い青色をした水に飲み込まれそうな気がしてドキドキした。
湖を渡り切る前に、日が暮れてしまった。水の色は昼間の鮮やかさを失い、ゆらゆらと黒い水面に月明かりを映している。
「おーい」と向こうから呼ぶ声がした。
先を行く旅人がいたらしい。若者たち数人のグループでかがり火を囲んで賑やかに笑いあっているのが見えた。リラと私は明かりに誘われるようにそちらへ向かって歩き出した。
その時、水の化物が襲ってきた。ぱしゃりとしぶきをはね上げながら、夕闇の中で青黒いイルカの形をした影がぐんぐん迫る。
逃げなきゃ。けれども足元の水が氷に変わってしまったかのように、私は立ち尽くしたまま一歩も動けなかった。助けてくれたのは、旅人のうちの一人。棒きれの先の炎が水のイルカを一刀両断。私たちは助かった。
無人島のように水の中に切り取られた中洲の上で火を焚いて、ひと晩そこで過ごした。
翌朝、湖の水は昨日と同じ明るさを取り戻していた。また浅瀬の道を歩き始める。どこへ向かっているのかなんてもはやどうでもいいことだった。ただ、リラのとなりを歩き続けるだけだ。
石の里、水の谷を抜けたら、その先には何が待っているのだろう。
結局私はそれを知ることができなかった。夢から覚めてしまったから。