マルセリーノは、いつもめちゃくちゃ素敵なジャケットを着ていた。それには青、白、金の糸を使った華やかな幾何学模様の刺繍が、袖の先や襟の端までみっちりと施されている。近づいてよくよく見せてもらうと、所々に紫や橙、黄緑の糸なんかも細かく編み込まれている。その色と模様は、彼の力強い褐色の肌にとてもよく映えたし、太陽のような笑顔を見事に引き立たせた。学校で初めて彼と話した時、「そのジャケットすごく綺麗だよね。はじめて君を見かけた時から、ずっと似合ってるなって思ってた。」と真っ先に伝えた。彼は「これは母国のインドネシアでデザイナーをしている叔母が、僕のためだけに作ってくれたんだよ。世界に1着。僕にしか着こなせない。」と、嬉しそうな顔で教えてくれた。そして私に、こう問いかけた。
「彼女が縫い付けた、この不思議な模様の意味が分かる?」
大好きなマルセリーノのことを思い出すのは、本当にそれだけで幸せなことだ。私は人としっかり目を合わせて話すのが苦手だけれど、マルセリーノの大きな目はまるで馬の目のように正しくて、その何処を探しても怖いものが見つからなかった。むしろ見る人を安心させてくれる目。そう感じるのは当然私だけではなかったようで、彼は道端で物売りする子供達にやけに頻繁にちょっかいを出され、気付くとすっかり懐かれていた。ある日朝一の授業中に、「見て。昨日、近所のメキシコ人の女の子に結婚してって言われちゃった。その子まだ、8才なんだよ!」と可笑しそうに笑いながら、彼の手の甲をこっそり見せられたことがある。そこには黒いマジックで思いきり、
「MI AMOR / TE QUIERO(私の愛する人/ あなたが欲しい)」
とマーキングされていた。笑った。あーあ、まったく罪な人だ。広い額、優しい目、大きくてまるい鼻、分厚い唇、暖かそうな手。いつも鼻歌交じりに世界を歩いて、出会った人全てに惜しみない笑顔を与える人。誰もが近づき、側にいたくなる人。あったかい、太陽のような人。
でも、その人は、誰かの特別な「MI AMOR」になることを避けていた。
彼は母国のカトリック教会から金銭的な援助を受けてメキシコに渡り、神父になるために語学と神学を勉強しているのだ。とある夕方、いつものようにカフェテリアで課題をしながら話していると、彼はこんなことを打ち明けてくれた。
「僕は、今でも悩むんだ。本当にこのまま神父を目指すのか、それができるかって。本当は、1人の女性を一生愛して、その人と家族をつくって暮らしたいって夢見る時がある。でもこの2つの夢は、同時には選べない夢だ。」
世の中にこんなにも美しい悩みを持つ人がいることを、私はその時まで全く知らなかった。想像したことがなかった。
「君は神様を信じていない?日本人はそういう人が多いって聞いたことあるけど。」
「うーん…分からない。確かに特別に何かを信じてるわけじゃないかな。例えばキリスト教についても仏教についても詳しくは知らないし、世界の始まりについて考えるとき、神様の存在を強く感じることもあまりない。」
でもそう答えたあと、ほんとうはまだ何か言うべきことが残っている気がした。彼の問いかけに対して、私はできるだけ誠実に、ほんとうのことを伝えたいと思った。でも、そういうことには日頃なるだけ目を瞑ってきたので、いざ語ろうすると言葉をなかなか見つけられなかった。それでも私は言葉を探した。結果的に何を言ったとしても、マルセリーノは絶対に人をジャッジしたり、否定したりする人ではないのだ。
「でも私の場合、全く信じてないとは言いきれないかも。祈る、っていう気持ちは、私にも分かる。それに時々ね、これは少し変な話かもしれないけど、何かが私を見てるって思うことがある。でもそれは優しい目というより、すごく厳しい目。ずっと自分を、どこかで見てる。怖い目だよ。自分でもよく分かんないんだけど、その目にね、気付くとこう言いたくなる。朝目が覚めた時、ベットの中で言う。ごめんなさい、私を許して、って。」
つっかえつっかえほんとうを絞り出すと、私は次第に訳の分からないことを言っていた。言いながら、情けないことにちょっと泣いていた。自分が話したことはもはや神様の話でもなんでもなかったと、後になって気付いた。でもマルセリーノはゆっくり何かを考えたあと、私の目を見てこう言った。
「僕は神の存在を前提に考える人間だから、じゃあ君の言っているその目が、君の信じる神だとするよ。そしてその神は、君の存在を毎朝、決して肯定しないとする。それは僕にとってとても悲しい。でも僕は、君に会えたことを、君の信じる神様に感謝するよ。そして美しくて幸福な朝を、君の神様に対して心から祈るよ。」
彼は何度も何度もその言葉を、まるで自分にも言い聞かせるように繰り返した。繰り返しながら、彼もちょっと泣いていた。しまいにはテーブルのペーパーナプキンをとって、そこに同じ言葉を書き出した。書いた文字をなぞり、補語や目的語の対象を正確に私に確認させ、丁寧に、魔法をかけるみたいに唱えてくれた。私はもう、なんと言えばいいか分からなかった。何故、悩んでいたはずの彼が私を励ましているのか。私こそ、彼の信じる神様に跪いてお礼を言いたかった。こんな人に出会わせてくれてありがとう。でも彼が紡いだその言葉以上に美しい言葉は、もうどこにも見つけられないと思った。
誰かのためにこんな言葉を贈ることのできるマルセリーノは、一体どんな人生を歩んできたのだろうと思う。彼はいつも朗らかで、寛容で、本当に太陽のように笑う人だった。だけど同時に、誰かを抱きしめられるほどの強い言葉を、他のどこでもない、自分の心から見つけてしまう人なのだ。それはつまり彼自身が、過去にその言葉を切実に渇望した経験があるということの証だと思う。マルセリーノは、親や兄弟と暮らした過去について、語れることが何も無いと言っていた。そしてその代わりに、彼の自慢のジャケットについて語っていた。
「僕のジャケットを作った叔母は、僕にとってたった1人の家族だ。僕が渡航を決めた時、彼女はこれを作って僕にくれた。彼女が縫い付けた、この不思議な模様の意味が分かる?」
これは彼のお決まりのクイズだ。彼に1度でも会ったことのある人は、答えをみんな知っている。心の底から知っている。
「マルセリーノを、愛してるってこと。」
彼にしか着こなせないたった1着の素敵なジャケットは、それを着る彼自身がこの世界にたった1人の存在であること、誇るべき美しさを持っていること、もうめちゃくちゃに素敵な存在であることを肯定し、証明し、祝福する愛の形だ。彼は毎日それを身につけ、そして目の前の誰かに、心から笑いかけるのだ。
私はあなたに出会えたことを、
あなたの信じる神に感謝する。
私はあなたの願う幸福を、
あなたの信じる神に祈る。
悲しいとき、マルセリーノの言葉を思い出す。少しだけ、自分ではない誰かのために祈ってみる。
いい。
マルセリーノかっこいい・・・。私をどうかお嫁に・・・