最近自分自身は本当は何がしたいのかを考えている。
自分自身の有限の時間を使って何がしたいのだろう。その結果何が達成できるのだろうか。
そのような禅問答に近いことを淡々と考える中で、自分との距離感を測っている。
最近よく本を読むようになった。他者の知識から有益な情報を引き出したいのだ。その世界に何かしらの素晴らしい示唆があり。僕はそれを汲み取ろうとしている。
冷静になって考えている。本当に書籍や人の発言に正しさは含まれているのだろうか。自分自身の血肉に変わるエッセンスがあるのだろうか。
答えは、YESでもあり、NOでもある。
結論から言うと、今の僕の状況では、何を吸収しても無駄なんじゃないだろうか。
・誰かがモチベーションを上げてくれるのを待つ
・有益な情報は外部に存在する
・それを知らない僕はモチベーションが上がらない。
そんなはずはない。きっとそうに違いない。
自分がやらなければならないこと。自分が人生をかけて達成したい目標は、あくまで自分自身の中にあるのだ。僕に今求められているのは、「僕はどう思っているのか」「僕は今何を求めているのか」をいかに外部からの情報を遮断して、じっくり自分自身に聞くこと。自分の微細な心情の変化から、汲み取ることだろう。
今、僕は仕事をしながら、自分の持つ資産を切り崩して生活している気がしてならない。
大学生の頃の培った人よりも高い想い。それを実現するための数々の内省・その手段。そこから培われた思考能力。どれも仕事をする上で非常に重要だし、一朝一夕でなんとかなるものじゃない。僕は結果として残った「思考能力」を切り崩して生きている気がするのだ。
なぜ切り崩していると感じるのか?それは明確だ。いずれこの思考能力もそこを尽きるのではないかと危惧しているのだ。
「思考能力」は僕の中の心情のきびを読み取る結果として培われたものである。とすると、自分自身の声を聞き取ることを行わなくなった僕は、いずれ武器の思考能力も衰えていくだろう。そうなったら、僕の手元には何も残らない。思考能力もなければ、強い想いを持ち続けることも困難になる。そうなった吉田純也は社会は必要とするだろうか。それ以上に、僕は人生を楽しく生きていけるだろうか。無理に違いない。
兎角、本や現地から得られる知識は結果としてのHOWの部分が大部分を占める。しかし、そんなことよりも重要なのは自分自身は何がしたいのか?をしっかりと聞き取ることができる内省力だ。
僕が大学生の頃、ほとんど本なんて読んでいなかったじゃないか。じゃあ何に時間をかけていたか?それは自分との対話だろう。
・サウナで自分自身の声を探る
・芝生で頭を空っぽにした結果、湧き出る感情に耳を傾ける。
・酒を飲んで物思いにふける
・近しい人に想いのためをぶつけて、知識を体系化させていく
・食べるもの、目にする景色、全てを自分との距離を測る(それを消費した時の自分自身の感情のきびに目を向ける。生産者の感情に共感する)
どれも、うちなる自分に目をむけていたはずだ。
確かに、考えている時は、何も生み出していない。生産性は低い。
けれど、人生をかけて何かを達成したいとき、自分自身の向かうべき方向性を持たないのは、労力と時間が四散し取り止めのない人生になっていくだろう。
それと比較したときに、長期的に見て、成果をなこすのはどちらだろうか。
モチベーションが上がらない?社会での市場のあげ方がわからない?思考能力をあげたい?そんなものは結果として残る副次的な産物だ。
根本の部分は、「自分のうちなる声を汲み取ること」である。その一つの手段に「外部の情報と自分自身との距離を測り続ける」ことがあり、その結果として上記の副産物が生まれる。
僕はもう一度立ち止まり、いや立ち止まるわけではない、見た目は完全に微動だにしていない、けれど頭の中で、自分自身との対話を活発におこなっている、ステップを踏み続けている。この姿を維持していきたい。
大学生の頃は、「ステップを止めてはならない」と言い聞かせてきたが、それは物理的な足のことを指していた。今は「自分自身との対話」であり、物理的なアクションの優先度を見直すと言う転換が起きている。その先に、アクションと内省のバランス感覚を動的平行を保つことが「ステップを踏み続ける」と言うことになるのかもしれない。
以上である。
やれるところから始めてみよう。自分自身の声を聞くのだ。いいね。
さようなら。