地面

もしも人間が存在しなかったら、今この地面はどんな感じなのだろう。子どもの頃よくそんなことを考えた。
そしてこの、どうしようもない暑さをアスファルトのせいにした。

地面に寝転がって目を閉じる。
思い描くのは恐竜時代の地面。家1軒分どころか電車1車両分もありそうな恐竜たちが、地響きを立てて闊歩する。
草食恐竜たちが食べるシダやソテツの葉っぱは柔らかくて美味しそうな気がする。それは昔読んだ絵本の挿絵がそういう絵だったからで、現代日本で見られるシダやソテツの葉は硬くて食べられたものではない。柔らかそうなのは見かけだけだ。
恐竜時代、今の日本列島がある場所は海の底だったそうだ。海の底。うみのそこ。
そのことを知ると不思議な気持ちになったものだ。足の裏に広がる硬い地面、寝転がると背中を押し返す、確固たるこの地面がなかった時代がある。
今も海の底だったとしたら、アスファルトなんてないし、まず自分という存在もありえない。

縄文時代、弥生時代、平安時代、室町時代。その時にもまだ地面は素顔を晒していたはずだ。
江戸時代に入って、東海道も熊野古道も石畳で整備されこそすれ、今のような黒くて平らなアスファルトは存在しなかった。そして建物は地表を覆い尽くすほどではなかった。

今はどこもかしこもアスファルトで覆われている。こんなふうに変わったのは、ここ100年くらい?
アスファルトのない時代の景色を私は知らない。
そうだな、ロシアで街のない地域に行けばただただ平原が広がる景色に出会う。のんびり草を食む牛たちを馬に乗った人間が見張っていた。
カンボジアに行った時は舗装されていない道も多かった。ゴミがいっぱい散らかって、野良犬が我が物顔に歩いていた。
遠くかけ離れた景色を見るように私はそれらを眺めた。日本の土地もアスファルトがなかったら、地面はあんな顔をしているのだろうか。

そのうち空飛ぶ車が主流になったら幅の広い道路は必要なくなるだろう。アスファルトは早急に取り除かれる。真夏の日差しの下、鉄板のように熱気を放出する地面は無用の長物でしかない。
人は踏み固められた土の上を歩く。あるいは石畳。あるいは、豊橋の葦毛湿原にあるみたいな木道が整備される。道の脇には並木が植えられ、その葉陰で草刈りをする人が現れる。雪国なら雪かきをするかもしれない。いつの時代も人は歩くことをやめなかったから、今後もやっぱり道は必要なのだ。
車が空を飛ぶことを義務付けられた後も、自転車は地上の道を走ることを許される。自転車はエコだからいい。ちょっと畑に行きたい時には空飛ぶ車なんかで乗りつけるより、自転車に乗って行く方がはるかに合理的だ。

以上が私の未来予測である。生きているうちにそんな景色が見られるだろうか。
どちらかといえば私は、手付かずの自然よりもある程度人の手の入った景観の方が好きだ。安心できる。きちんと整備された山道を歩いて行くのは至福である。

別な未来を想像することもある。

ある日突然、町から人間が姿を消してしまったらと想像する。一人も残さず人間はいなくなってしまう。どこか別の場所へ移動してしまうのではない。人間という種族が丸ごと消滅してしまうのだ。
ある日忽然と消えてしまった謎に包まれた文明が、過去にあったかもしれない。未来にないとは言い切れないでしょう。
残されたのは空っぽの街、空っぽのビル、空っぽの家。1ヶ月経ち、1年経ち、1世紀が経つ。
ネズミや虫や野生動物が好き勝手入り込んでそこをねぐらにするかもしれない。やがて壊れた屋根から雨水が染み込む。木や布などの有機物は分解されて土に還る。ガラスや金属はそのまま埋もれる。隙間から顔を出した芽がアスファルトを押し分けてぐんぐん伸びて森を作る。絡みつく蔦や厚い薮が行手を阻む。立ち入る人はもうどこにもいない…。

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