こんなかわいい子が、生まれて来てくれてありがとう。
離れて住んでいる従兄弟が赤ちゃんを連れて会いに来てくれた。手も足も、ちっちゃい。去年の12月に生まれた。写真では見せてもらったことがあるが、会うのは初めてだ。もうはいはいするし、パパとママにスプーンで食べさせてもらいながら離乳食も食べる。
「はーい、食べましょうねー」
「おむつ変えましょうねー」
「これはダメですよー」
従兄弟がすごく一生懸命にお世話をしているのが微笑ましかった。いいパパだ。ママも、子供を見つめる眼差しがお母さんのそれだった。すごく優しい。
はいはいが思いの外、素早くて、ばーちゃんの家の廊下をさっさかさーと移動してしまう。赤ちゃんってこんなに早く動けるの!?仏壇や机の上のコップや窓に手を伸ばし、目につくものをなんでも口に入れてみる。見ている大人たちは片時も目を離せない。気もそぞろにケーキを食べ、コーヒーを飲む。その間を赤ちゃんがはいはいしていく。机の角に頭をぶつけやしないかとひやひやする。
人見知りしないようで、私のところへもやって来てつかまり立ちをする。短い間なら両足で立つことができる。すごいね。
泣き出した子を背の高い従兄弟が抱き上げて高い高いをすると、すっと泣き止んだ。手足をパタパタ動かして喜びを表現する。笑顔。澄んだ目で見つめられると、私はなんだか泣きそうになる。
じーちゃんとばーちゃんにとってはひ孫にあたる。2人とも嬉しそうだった。私が生まれた時もこんなふうに可愛がってくれたんだなと思う。父も母も、従兄弟夫婦のように私のおむつを替え、椅子に座らせ、ごはんを食べさせてくれたのだろうか。赤ちゃんの時の記憶はないんだけど、赤ちゃんだった時があったんだなと思い出した。誰でもみんな、生まれた時は赤ちゃんだった。
「赤ちゃんできた?」
この間、職場の人にこそっと聞かれて全否定した。お腹に子供がいたら自転車乗ってませんて。
なぜそう思われたのかわからないが、もしかして私、太ったのかな。
子供を欲しいと思う気持ちはあるけれど、今のところそのつもりはない。少子高齢化というけれど、この地球上に人間はあまりにもたくさんいすぎる。食糧やエネルギーが足りなくなるのはそのせいだ。自然破壊だって。人口が少なくなれば、地球はもっとうまく回っていくと思う。子供の頃、私はそういう考え方をする子だった。それは今も変わりない。
何より現実問題として子供を育てるには、夫が頼りなさすぎる。大きい子供ならすでにひとりいるようなものだから、もうひとり面倒見切れる自信がない。
物価高が進む世の中で経済的にも不安がある。ご飯を一日3食食べられない子たちがいて、問題になっている。そういう悲しみを私は生みたくないんだ。
でも、このまま子供のいなまま人生を終えていいのだろうか。今日、従兄弟の赤ちゃんを見て少し気持ちが揺らいだ。誰かのお母さんになるってどんな感じなのだろう。まだ生まれて来ていない子のことを想像する。なんて名前をつけよう。男の子か、女の子か。はいはいしてた子が手をつないで歩くようになって、保育園に行き、小学生になり、中学生、高校生になる。大きくなった子供からクソババア呼ばわりされたらすごくショックだろうな。それでも愛せるのだろうか。
考えても、未来のことはわからない。子供がいてもいなくても、私はどう生きたらいいのだろう。
畑のことを思う。
じーちゃんばーちゃんと畑の野菜の世話をするのが、私にとって一番幸せな時間だ。先祖代々受け継がれてきた畑を私も守っていかなければという使命感みたいなものがある。私が祖父母と同じ年齢になった時、果たして畑を継いでくれる孫は現れるのだろうか。いなければいないで、畑が途絶えることは仕方ない。私はただこの場所が好きなんだ。晴れた日には穏やかな日差しの下、野菜たちが葉を広げ、枝を伸ばし、花を咲かせ、実をつける。じーちゃんがいて、ばーちゃんがいる。2人がいなくなった後も畑は残り続ける。
ありがとう。ご先祖様。
いつの時代からこの土地に住み始めたのかは知らないが、子孫が食べるに困らないようずっと畑を守り続けてきた。
春にはえんどう豆、夏にはナス、秋にはさつまいも、冬には大根白菜。幾度繰り返すことだろう。毎年毎年同じように季節は巡る。平和だ。
私はこの畑を誰かに託せるのだろうか。わからない。
大切にしたいものは、命ある間にしか大切にできない。それ以上を望むつもりもないよ。
