前にラリーの好きな友達が「これから観戦するの」と楽しそうに話していて、その時はただへえーと聞いていた。車のレースを見て何がそんなに楽しいんだろうと不思議だった。今ならわかるような気がする。何かを応援したいという気持ちって、こんなにわくわくするものなんだな。
畑から帰ると母が飲み物を用意してくれていた。ばーちゃんは抹茶ラテ、私と母は温かいカフェモカ。3人でこたつを囲みながらおやつタイム。温かい飲み物がお腹からじんわり体に染み渡る。
母はぜんくん(聴導犬)のトイレが近くなってきたのを心配していた。
「もうすぐ9歳になるし、寒い日はこまめにトイレタイムにしないとね」
お店の中や電車内で粗相をしてしまうと聴導犬のイメージダウンにつながる。ペットシートで拭き取りして消臭スプレーをしても、周りの人の記憶を丸ごと消すことは不可能だ。失敗する時もあるんだよ。人間だってそうでしょう。
引退を考える年齢が近づいているのかもしれない。一緒に居られる間はできるだけいたわってあげたい。この子のユーザーは私ではなくて母なんだけど、本当にそう思う。
ぜんくんは珍しく自分から私の膝に乗ってきた。寒いので人の膝で暖を取ろうという魂胆のようだ。かわいいやつ。
朝、ものすごく冷えた。自転車のハンドルを握る指がかじかんでいた。明日は手袋をして行こう。
母は放っておいても際限なくしゃべり続ける。適当に聞き流しつつ私は新聞を広げた。母が見せてくれた薔薇の花のちぎり絵に「この色がいいかな」と合わせていたのが、ちょうど東京デフリンピックの特集だった。
自転車競技に自然と目が引き寄せられる。デフリンピックにもロードバイクの競技があるようだ。早瀬久美さん。うちの母と5歳しか歳が変わらないのでびっくりした。
早瀬憲太郎さんとご夫婦で選手として出場されるようだ。あれっ、映画監督をしている人じゃなかったっけ。憲太郎さんのことは私、知ってるよ。友達の友達ぐらいな繋がりで。デフリンピックという世界を舞台とする大会においても、ろうの世界は狭いのか。それとも自転車に乗っているというだけで、今まで縁のなかったように思えた人が、突然、近くに感じられるようになったのか。いずれにせよデフリンピックが楽しみになってきた。応援したい。いや、応援します!
大学の卒論でデフリンピックについて書いたのを覚えている。パラリンピックとは別にろう者のための国際スポーツ大会があるのはなぜだろう。手話を使ってコミュニケーションするろう者には、聞こえないことが「障害」ではなくなる場が必要だったのではないか。国や地域によって手話は異なる。アメリカ手話と日本手話は違う言語だ。それでも目で見てイメージしやすい表現やジェスチャーである程度のことは伝えられる。「国際手話」という共通語もコミュニケーション方法のひとつだ。手話と音声言語の間にある垣根を乗り越えることよりも、異なる手話同士の方が親睦性が高いのではないか。そういう内容を書いた。
私は手話ネイティブではない。母は難聴だが、手話はあまり得意ではない。家族とは口話、筆談、指文字を使ってコミュニケーションする。小中高ずっと健聴の学校に通った後、大学生になって初めてろうの友達ができた。手話やろう文化に対する憧れを強くもった。
今はほとんど手話を使わない生活をしている。ろうの友達にも全然会っていない。そうしようと思えばコミュニティに参加することはできるのだろうが、本音をいうと人との関わりがわずらわしく感じられる。私はろうではないし、健聴でもない。どこにも属したくないのだ。
今日も私は自転車を走らせる。ひとりで自由に走っていける。
風は冷たい。手がかじかみ、足首が冷える。それでも、この世界のどこかにデフリンピックを目指している人がいて、きっと今も自転車を走らせているのだろうなと思うとなんだか胸が熱くなる。目標をもって生きている人が眩しい。
デフリンピック選手になるってどんな感じなのかな。どれくらいの競争率なのだろう。単純に考えてオリンピック選手を目指す人の数よりも、デフリンピックを目指す人数は少ないはずだ。だとしても、日本の代表として世界を相手に戦うためにはそれなりの水準が求められるだろう。強くなるために、様々なことを犠牲にして毎日練習するのだろうな。
私にそれができるかと言われたら、答えはノーだ。何もかも犠牲にするほど強い気持ちをデフリンピックや自転車に対しては持てない。レースは一瞬、デフリンピックという祭典は一時のものだが、日常は続いていく。私が最も大切にしたいものは、むしろ変わり映えしない毎日の中にあるんだ。例えば、畑から帰った後にこたつで飲み物を飲んで温まる、そういう幸せを犠牲にしてまで自転車に乗りたいとは思わない。時々遠出するくらいで十分だ。
私には私の毎日がある。自転車は生活の一部だ。クロスバイクに乗り、会社へ行く。ママチャリに乗って畑に行き、買い物に行く。行ったり来たり往復するばかりでどこにも向かっている感じがしなかった。でもそんなことはなくて、私が私として生きていく限りちゃんとどこかに向かって進んでいる。その行き先をしっかり見定めておかなくてはいけない。
何かを目指して生きていきたいという、忘れていた感情がふと蘇ってきた。かつて志していたものがあったじゃないか。聞こえる人も聞こえない人も自分らしく生きれる社会になって欲しい。自分の生き方でそれを体現するんだ、って。
私は強い人間ではない。聞こえないことを実感させられると、大抵ネガティブな気持ちになる。話しかけられてもわからない。こちらが理解できない声で話しかけないで欲しい。
そういう時、苛立ちや不満をぶつけてもどうにもならない。自分は聞こえないんだと開き直って堂々と生きていきたい。
