あの世とこの世の距離

春の桜と同じくらい毎年開花が待ち遠しくなる花がある。川岸に咲き乱れる赤い花を見て季節の移ろいを知る。いつのまにか、もうすっかり秋だ。

「ごんぎつねの里」で名高い半田の彼岸花を見に行った。橋を渡って知多半島に入ると一気に自然豊かになる。道の両脇は木、木、木。風に混じる畑の堆肥の匂い。海沿いは平坦なのかもしれないが、内陸の方は意外と起伏が激しい。いくつも坂を登り、坂を下る。風が気持ちいい。
日が登り切る前に新美南吉資料館に着いた。「駐車場1回1,000円」の看板の前を自転車を引いて悠々と通り過ぎる。まだ半分ほどの開花だったのにも関わらず、たくさんの人が訪れていた。
川べりに誘うように赤色の帯が広がっている。私の想像する三途の川にもこんなふうに彼岸花が咲いている。死んだら誰でも三途の川を渡ってあの世に行くのだ。川を渡ってしまえば二度と戻って来れない。
お彼岸の時期、あの世とこの世が近づくと言われる。普段は忘れてしまっている「あの世」の存在について考えた。

少し前に森絵都さんの『ラン』という小説を読んだ。あの世とこの世は「レーン」という道でつながっている。その距離、40km。家族と死に別れた主人公が、自転車に乗ってレーンを超え、あの世の家族に会いに行く。しかし何度かあの世に通ううちに自転車を手放すことになってしまう。このままでは家族に会えなくなる。それは嫌だ!と自分の足で40kmを走り通すことを決意し、素人マラソンチームの一員になって必死に練習する。
初めは「あの世を目指す」という後ろ向きな理由で走り始めた主人公だけれども、彼女が前に進んでいく姿にとても心を動かされた。私のお気に入りの一冊になった。
私は悲観的な人間なので、この世に家族と一緒にいるうちからもう、いつか必ずやってくるお別れを想像して悲しくなってしまう。一緒にいる時間は楽しく過ごしたいと思うし、なるべく悲しい顔はしないつもりだ。家に帰って眠りに落ちる前なんかに、「今日楽しかったな」と思い出して必ず悲しくなる。
この悲しみはどこから来るのだろう?
子供の頃、ごんぎつねを読むと毎回泣いていた。ピアノを習っていて発表会の曲に先生がビゼーの「小さな木の実」という曲を選んでくれたんだけど、お手本を弾いてもらったらめっちゃ悲しくて泣けてしまった。大人になった今は、親や祖父母がみんな優しくて涙が出てきてしまう。ありがたさが身に染みる。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
一つだけ確かにわかるのは、楽しく笑っているだけで生きていけるなら、それは私ではないということだ。
悲しみに追いつかれないよう、外に出て自転車で走り出す。今まで一度も「レーン超え」をできた試しはないが、構わない。足を動かして風を感じ、周りの風景が変わっていくのを眺めていると気分が落ち着いてくる。
今の私は、40kmという距離を遠いとは感じていない。マラソンを完走できる気はしないが、自転車さえあれば私にも超えられる。自転車で行って帰って来れたというだけで、今まで遠く感じていた場所が近くに思えてくるから不思議だ。

10月に入ってからは日没が早くなった。道草しているとあっという間に真っ暗になる。川沿いの道は特に暗い。一つの街灯を通り過ぎた後、次の街灯にたどり着くまで暗闇を走り続けなければいけない。むしろ街灯のない、月明かりだけの道の方が明るく感じられる。地球と月くらい隔たっていれば、近づこうとするのは虚しい努力でしかない。そんなことしなくても月の光はいつも真っ直ぐに地球目指してやってくる。
「死んだらお星様になる」という説、私は好きだ。死を理解できない子供に対して優しく説明する言葉としてこれだけ使い古されていなければ、すごく好きな言葉の一つと言ってもいい。実際には夜空に散らばる星たちは高温のガスの塊で、死者と星の間には全く繋がりはない。わかっている。手の届かない遠くへ行ってしまうという意味だ。
この世とあの世は絶望的なまでに隔たっていて、死んでしまった人たちにもう二度と会えないと思うと悲しくなるけれど、その距離を遠いと思うか近いと思うかは、実は自由なのかもしれないな。誰かのことを思う気持ちは目に見えなくとも、きっと光よりも真っ直ぐにどこまでも距離を超えていくはずだ。

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