昨日私はルイージになった

昨日、私はルイージになった。

お尻の下でカートがぶるぶるしている。と思ったら突然発進した。ブレーキとアクセル、どっちだったっけ。最初に説明されたけど忘れちゃった。
自分でもびっくりするほど運転が下手くそ。ドッスンに潰され、道のあちこちにぶつかりながらはるか前方に消えたマリオを追いかけた。

ジャンプすると本当に風を感じる。

イオンのゲームセンターで、マリオカートをVRで体験できる。8分で1000円、ちょっと高いけどVRってすごい。いやはや最新の技術には肝をつぶしちゃうね。

VRの技術を活用して、例えば、寝たきりで外に出られない人に、かつてよく歩いた道を見せることができる。まるで実際にそこにいるかのように感じてもらうことができる。
認知症の人がどう感じているか、VRは再現する。介護する側の人が介護される側の立場を体験することで、より良い介護福祉を目指す。

ゲームの世界だったら、自分のアバターを持つことができる。マリオカートの世界で、私はルイージとして存在していた。現実と違う自分になれる。
望む自分になることも?

もっときれいになりたい。かっこよくなりたい。速く走れる身体を手に入れたい。
それはなぜ?
そのままではいけないの?
もしも現実の自分を好きになれないなら、VRの世界でどんなに完璧な姿を手に入れたとしても、現実を否定するままなんじゃない?

本当はありのままの姿を愛して欲しいと思ってる。違うかな?

「リアルだ」と感じるけど、でも現実ではない。
現実とは、生きている生身のことだ。昨日ななこのダーリンで書いていたみたいに、生身の身体は汗もかくしにおいもする。
生きている身体はあたたかい。と思ったら、冷たくなりたいわけじゃないのに冷え切ってしまったり、赤くなってほしくない時に赤面したりする。ドキドキは自分のコントロールの及ばないところ。リアルすぎる現実は、再現する意味なんてないよね。

去年、英語のディスカッションの授業でVRについて話し合ったのを思い出した。
VRは、死んだ人をよみがえらせてくれるのか。ファンタジーだね。ハリー・ポッターの肖像画とかスカルダガリーのゴードンおじさんみたいに、生前と変わらない姿を見ることができたり、おしゃべりしたり、できるようになったら。
「本物でないなら意味がない」と私はそのディスカッションの時に言った。でも、本物と信じるなら意味はあるのかも。

マリオカートの世界から帰ってきて思った。現実はかけがえないものなんだ。
命を持ったその身体はひとつきりで、VRやクローンやどんな技術を使ったって再現できない。アバターを生きるのではなくて、自分に与えられた命を生きたい。
わざわざVRで再現する価値を持たないような、当たり前の日常こそに価値があるんだよ。

技術は現実を支えるためにあるべきだ。現実を生きていく勇気をくれるなら、それこそがVRの役割だと思う。

“昨日私はルイージになった” への5件の返信

    1. いい質問ですね!
      小説では主人公を眺めている感じだけど、VRは自分自身の感覚として体験できると言えばいいのかな。例えば、ルイージってドッスンにつぶされても痛くないんだ、っていうのを知りました。

  1. 色んな要因で現実の体に縛られて生きづらい人が選択肢を得られるのが良いなと思う。他者になることで現実の自分を見つめ直すきっかけにもなるかもしれない

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