甘夏みかんの剥き方

知っている場所なのに思い出せない夢をよく見る。どこかへ私は向かっている。行き先がある。でもどこにあるのかわからない。そんな夢。

背中のリュックがだんだんと重みを増してきたような気がする。靴の中でつま先が雨に濡れ始める気配。もう歩くのが嫌になってきた。
通りかかったバス停で時刻表を見る。次のバスは6時7分だった。
渡りに船。
待つ間、英訳を試みる。
When you arrive at the bank, there is a boat waiting for you on the river.

6時7分を過ぎた。バスは私を待ってくれているわけではなかった。仕方ない。
次に甘夏みかんの剥き方を考え始めた。背中のリュックが重いのは、ついさっき店で買った甘夏のせいに違いなかった。はっさくにそっくりな外見をしている。中身もはっさくと同じであるなら、外皮を剥いて一房ずつ分けた後、薄皮と種を取り除かなくてはならない。手間がかかる。でもそれがいい。
はっさくの皮むきが私は得意だ。毎年冬になると畑で取れたはっさくをこたつで剥いて食べるのだ。きれいに剥けた時の満足感と、みずみずしいあの酸っぱさは格別だ。何よりも手に柑橘の爽やかな香りが残るのがいい。

バスにはほとんど乗客がなかったので、遠慮なく出入り口から近い優先席に座った。いっそう疲れを感じる。まだまだ元気いっぱいだ、と歩いている間には偽っていられるのだろう。
明日も雨だからすることはない。洗濯はまた今度。英語の勉強をして甘夏みかんを食べるくらいさ。ゆっくりできるのはすてきだけれど、どうでもいい一日になりそうだ。
どうでもいい。
甘夏みかんか、オレンジか。手で皮を剥くか、包丁を使うか。バスに乗るか、乗らないか。arrive at か get to か。
本当にどっちでもいいことだ。たまたま目に入ったものを選んだに過ぎない。何を選んだらいいのかわからないし、どうしたらいいのかわからない。何も選ばないでは生きていけないから、仕方なくそうしているだけだ。それらの取るに足らないような物事が私の人生を形作る。川の流れに流されるままに選挙に行き、バス停で足を止め、そして私はどこへ向かっているんだろうか。
どこでもいい。さっさと背中の荷物を投げ出して楽になりたいものだと思う。

家に帰って甘夏を食べた。はっさくと何が違うのか全くわからないくらいにそっくりなくせ、うまく剥けない。まな板にフレッシュな黄色い果汁がこぼれる。でもそれは恐らく、収穫後日にちがたってしまっているからなのかもしれなかった。
期待はずれ?
ううん、そんなことない。きれいに剥ける甘夏がきっとどこかにあるはずなんだ。

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