金華山

好きな山は?

と聞かれたら、私は今まで登った山をみんな挙げる!
三重の御在所岳、豊橋の葦毛湿原、三ヶ根山、ロシアのスヴャトイノースやクラスノヤルスクの山…。

ロシアの山と日本の山はちょっと違う。ロシアではこけがあんまり生えてない。
山を前にして人間はなんてちっぽけな存在だろうか。その感覚は日本だろうと、ロシアだろうと変わりはない。

一昨日、金華山に登った。
街の中の山。山の上の城。愛媛の松山城と似ている。
岐阜城を山の麓から見上げると、なんだか星の王子さまが住んでいるような天体に宇宙船が引っかかっているように見えない?そう思うのは私だけ?

自然の中に足を踏み入れると心はすうっと静けさを取り戻す。
木々の下、枝葉を通してさざめく光と影。そこでは、普段電車や講義やバイトに合わせて動いている時間とは別の時間の流れが存在しているみたい。

山の険しさはまた、私の心を熱くする。足よ、強くなれ。私は足を鍛えたい。登りのコースは思った以上にきつかった。崖のような急斜面を登りきると、火照った肌を凉風が吹き抜ける。一緒になって訪れる、苦しさと心地よさ。

ああ、これが山登りの醍醐味なんだなぁ。金華山の近所に住んでいたら毎週登りに行くのに。はまってしまいそうだ。

下りは行きとは別のコースを選んだ。下り始めてすぐに以前歩いた道はこれだと気がついた。
終わりがないかと思えたほど延々と続く石段。泊まった山小屋。木を打ち付けて登山道の整備をした場所。その時の会話まで全てが鮮明に蘇ってくる。

金華山に登るのは実は2度目。
カンボジアにグループワークキャンプに行く3ヶ月前、金華山で合宿があったんだ。他のメンバーとの顔合わせやボランティアの心構えを実際に作業しながら学んだ。

当時私は19歳。初めての海外。おまけに、グループのリーダーを引き受けるのも初めての経験だった。
たぶん引き出しの奥を探せばその時の日記がしまわれている。「どうしたらいいリーダーになれるだろう」そんな不安がネガティブに、ネガティブに書き綴られているはずだ。

4年前と比べて成長できたかな、私。

でもね、金華山なんかを前にしたら私個人の変化なんて些末な事柄でしかない。この4年間なんて無に等しいとさえ思う。
織田信長が岐阜城に住んでいた頃、それより前、岐阜城がまだ稲葉城だった頃、さらにその前、人間が山に足を踏み入れるずうっと以前から存在し続けている金華山。

私たちはみんな、歴史の中の砂つぶの一つ。
その砂つぶの一つが、今山を登っていて、苦しかったり感動に打ち震えたりしている。まさにこの瞬間、きらきらと砂時計の中を流れ落ちているんだ。

有限なる存在である私は、金華山に永遠を託したいような気持ちになる。

「金華山を美しく」
「金華山が荒れています。決められた登山道を歩いてください」
いたるところに立て札が目に付いた。道はしっかり整備されて、ゴミはどこにも落ちていない。
きっとみんなから大事にされている山なんだね。そのことを嬉しく思った。

時代がどんなに変わろうと、金華山は金華山のまま、変わらずずっとあり続けてほしいと思う。光と影が交差する、枝葉の下のあの場所で、いつまでも穏やかに時が流れていくと信じていたい。何十年後も、何百年後も。

“金華山” への2件の返信

    1. じんぐうじさんは岐阜の方だったんですか?!
      りす村行きたかったんですけど閉館時間を過ぎてしまいました…。また今度、会えたらいいなぁ

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