小説の書き方について読んでいた時、
人間関係の化学反応
という言葉を目にした。
「小説とは一種の時間芸術で『設定』から『新局面』までの時間的『展開』の中で、主人公その他の人間像と、人間関係を描き出しつつ、それが変質して行く奇跡を捉えるものだ」
どんな人間がどんな人間と出会い、ぶつかり合い、影響を受け、変化する、人生の曲がり角を捉える。それが小説。
なるほどなあ。
まてよ。
私の人生において、人間関係の化学反応はあったのだろうか。
他人に腹を立てなくなってしまったのはいつからだろう。何かを変えようとすることを放棄して、希薄な人間関係を私は生きてきた。
どうしてそう苦しむの?怒るの?悲しむの?
この人はこういう人だから。
そんな行動をする裏にはきっと、何か事情があるかもしれないし。そんなに気にしないで。放っておけばいいじゃん。
「人間関係の化学反応」をはたから不思議そうに見ていた私。
人との距離を近いとも、遠いとも感じたことがなかった。それ以上踏み込んだらいけないと、どこかでそう思っていた。
ただ、心穏やかに生きていたかったんだ。
その結果が、中身のない、薄っぺらな自分。どんな人物を書いても、私の小説は生きてこない。無理なんじゃない?
途方に暮れたある日、私はついに腹を立てる機会を得る。
その時、私は自分のことがものすごく嫌になった。自分本位で、虚栄心の塊で、なんて嫌な奴。
ああ、
私にもこんなに人間くさい部分があったんだ。
少し、安心した。
他の人もこんな感じなのかなあ。
思い出せ。
その前に腹を立てたのは?思い出せ。
雪の日に車を運転しようとして父に叱られた時だった。その前は、ロシアで、友達に。
その度に私は、怒るというよりも悲しかった。苦しさはどのみち誰かが引き受けなければならない。私はそれをひっそり涙に変えた。怒りを自分に向けた。「大嫌い!」と言葉を投げつけるくらいなら、自分のことを嫌いでいたい。誰も嫌いになりたくない。
そんな感じの歌を、確かどこかで見たんだよ。
『恋と病熱』米津玄師さんだ。
歌詞を見ると心を言い当てられたみたいにぞっとするんだけど、音楽はかわいい。槍持った虫歯きんたちがぞろぞろ出てくるイメージ。
え、全くそんな感じじゃない?
自分嫌いはきっと治せる。
今、こうして文章に書きながら思い返してみれば、そんなに嫌いになる必要なかったんだな、と思える。
何も変わらないように見えて、私の人生にも曲がり角はあったのかもしれない。
嫌な部分も、私の一部だ。もっとひねくれた生き方もできるはずだよ。
小説の中で嫌な自分を動かせば
なんだか嫌な小説になりそうです