聞こえると聞こえないの間

手話は、ろう者の世界へ入っていく、というイメージだけれど、
要約筆記は、聞こえる人の中で生きることに関わっている。と私は考えた。

福祉実践教室の講師をするのは初めてだった。

点字、高齢者体験、車椅子、手話…..とある中で、私が担当したのは「要約筆記」。
知らない人のために説明すると、要約筆記とは、
聴覚障害者のための情報保証の一つ。声で話されている内容を要約しながら、リアルタイムで文字に変えて伝える方法、
です。

フォローするので自由にやってと言われたので、それではと自由にやらせてもらった。そしたら結局、要約筆記というよりは、聞こえない人と聞こえる人のコミュニケーションについての講義になってしまった。

「聞こえない人に伝える方法を、できるだけたくさん考えてください。」
と生徒に伝え、グループでディスカッションしてもらった時、ある生徒はこう答えた。
「手話」

手話を知らない難聴者もいる。聞こえないからといってみんな、手話を知っているわけではないんだよ。
私が説明すると、「へぇー」という顔をされた。

聞こえる人の中で生きる

以前の私は、聞こえる人として生きようとしていた。
手話を話す友達に出会って聞こえない自分でいてもいいんだ、と思えた。
音のない世界は心地よい。
けれども、聴でも、ろうでもない、自分の居場所を常に探していた。

バイトでレジに立つ時は声を聞き、声で話す。
ろうの友達と話す時は手話を使う。
文章の世界が一番気楽だと感じる時もある。
私はピアノを弾くのが好きだし、ときどき音楽を聴きたい気持ちにもなる。
ひとりのときは補聴器をとって、ただ自分の歩くリズムに耳を傾ける。

聞こえる人のように自分も聞こえたらいいのに、と願ってしまう。
電話で話したり、喫茶店に流れる音楽をバックに聞きながら友達としゃべったり、英語でスムーズに話したりすることもできたかもしれない。
わざわざ字幕付きの映画の上映時間を確かめなくてもいい。
人から話しかけられることを恐怖と感じたり、ロシア語検定を受けることもリスニングがあるからと躊躇したり、そんな消極的な自分ではなかったかもしれない。

いや、そうでもないかも。
聞こえないからこそ積極的になれた面も、確かにあるよ。
「耳が聞こえないので、もう一度言ってもらえますか?」と、コンビニのお客さんに伝える。
「書いてくれる?」英語で頼む方法を身につけた。
「もしかして今、名前呼ばれました?」病院の看護師さんに確認する。
「今言ったのはこういうこと?」わかったふりをして、笑ってごまかすなんてだめだ。
自分から伝えなければ誰も気づいてくれない。
聞こえる人の世界で「聞こえない」と言うのはとても勇気がいることだ。
けれども、言い続けていたらいつかは、
聞こえないことも当たり前に受け入れられていくのではないか。

聞こえないからしょうがない?
あきらめるのは間違っている。
私は私らしく生きたい。
それはあなたが聞こえる人として生きるのと変わりはないはずだ……。

聞こえない人に伝える方法はいろいろある。
大事なのは相手に伝わることだ。声がだめなら手話、手話でだめなら触手話、文字、ジェスチャー………
相手に応じて変えられるチャンネルはいくらでも持っていて損はない。

早くて正確な方法なら、障害をなくすことができるのだろうか。
手書きの要約筆記より、パソコンテイク。パソコンテイクよりも、手話がわかるなら手話の方が。本音を言えば私もそう思っているところだ。

もともとはいいも悪いもない。聞こえないことも。コミュニケーションが難しいことも。
不便だと感じてしまうのは、聞こえることや、スムーズにコミュニケーションができることが「当たり前」だと思うから。

なかなか伝わらないのだって、そう悪くはないんじゃない。
苦労の末に伝わった時のほっとした気持ち、
誤解から生まれる間の悪さを覆すような笑い、
情報保障を要約するセンスと誤字を解読するスキル、
時間をかけて丁寧に書かれた言葉、
逆に気持ちが先走るあまり汚くなる文字、とそれを解読するスキル。

それらは、打てば響くようなやりとりの中では決して生まれなかっただろうな。福祉実践教室で生徒に話しながら、私はそんなことを思った。

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