夜中1時、私は台所でひとりホットケーキを焼いていた。既に適当に夕食を済ませていたにも関わらず、なぜそのような凶悪な犯行に及んだのか、自分でもよく分からない。ただ台所の戸棚に何故か森永のホットケーキミックスが入っており、冷蔵庫にはゆめタウンブランドの卵と明治おいしい牛乳があった。恐らくはそれが、いけなかった。そうしてホットケーキを焼いていると私はふと、ホットケーキを焼くのに相応しい音楽を聴きたいな、と思った。でもそれは、ホットケーキを焼く自分のための音楽を聴きたいという意味なのか、フライパンの中で焼かれるホットケーキのための音楽を聴きたいという意味なのか、よく分からなかった。仮に後者だとすると私はホットケーキの心情などについて真剣に考察を始める必要があると思われたが、しかし自分の今の能力では、まだホットケーキの気持ちなど考えることができない、人間の気持ちだってよく分からないのに。全く、そうよそうよ。おかげで今日も、苦労したわ。もうヤケよ、ヤケ。とほほ。などと考え、いよいよややこしくなってきた。よって後者の可能性については今回一旦目を瞑って、これを焼く自分のための音楽を選んでしまおう、ええい、そうしてしまおう、という思いに駆られた。でもその時急に、私は小学生の頃に読んでいた本を思い出した。
「つるばら村のパン屋さん」
なんともピースフルな、可愛らしいタイトルである。その中の話の一つに、うろ覚えではあるがこんな話があった。
くるみさん、という方が、つるばら村、というところでパン屋を営んでいる。しかし客の入りがいまいちだったので、「ああもう誰でもよいから、パンの注文に来てくれたまえよ。」などと思ってしまう。「誰でもよいから」という言葉は大抵の場合自らを危険に晒す要因となる言葉であって、案の定その翌日、パン屋にはクマがやってくる。腰を抜かしたくるみさんは、「あ、これ、もうだめなやつやん。」などと思う。しかしクマは「ああ君、いいからいいから。私が持ってきたこのタンポポの蜂蜜を使って、めちゃくちゃうまいパンをこしらえなさい。しかし生地を捏ねる際、寝かせる際、焼く際などには、必ずこの音楽を生地に聞かせなさい。」などとややこしいことを言って、レコードと蓄音機を置いて去って行く。くるみさんは、「え、まじか。それちょっとめんどいやん。」などと思う(本当に)。しかしくるみさんもプロである。言われた通りにパンを焼いてみると、この上なくうまそうなパンが焼き上がる。クマは焼き上がったパンをひと口かじるとうっとりして、「あ、ちょっとこれ…半端ないです。これはちょっと、まじでうまいです。」とかなんとかしみじみ言って、ぬくぬくした気分で冬眠に入っていく。くるみさんはパン代として、このクマのレコードを譲ってもらう。とまあそんな感じの話である。
今までずっと忘れていたけれど、私はこの本が死ぬほど好きだった。パンの描写が(実際の物語の中では)本当に素晴らしかったので、空腹に苛まれつつも繰り返し読んでいた。パンに聞かせるべき音楽、パンをより一層おいしく焼ける音楽というのは、一体どんな音楽だったのだろう。クマのレコードが本当に存在していたら、私のこのホットケーキ (こんなのパンの親戚のようなものだろ) だって、すっかり幸福な気持ちになり、ふくふくと膨らんで、甘い香りをたっぷり包んで、良いきつね色に焼けるだろう。ああ気になる。どんな音楽だったのだ。是非聴かせてくれ。そしてこのホットケーキをめちゃくちゃうまいものにしてくれ。とかそんなことを思っていたら、ホットケーキはもう十分すぎるほど焼き上がっていた。ちょっと焦げた程度で、あとは普通の、何の変哲もないホットケーキだった。私はなんとなくその現実が寂しく、もう夜中であるのに焼いた分全て、つまりミックス1袋分のホットケーキを平らげてしまった。さらにはコーヒーなんかまでガブガブ飲み、結果流石にまだ眠れない。全く、何故私はこんなにも阿呆なのか。救いようがない。目が、ギュンギュンに冴えている。誰でもよいから、私を寝かしつけてください、お願いします。あ。
今日はブルージーでいいなあ。なんか萌ちゃんが飛び道具を手にしはじめたような気がする。ちなみに僕は三時にカルボナーラを作って食べました。「深夜にカルボナーラを食べることは神の教えに背く」という言葉もあるんだけどね。
え、何その言葉!!
胃がもたれるよって心配してくれてるの…か…? 笑