たとえばだ、ウッドベースの弦を、開放してはじいてみる。すると「ボーン」という振動が僕たちに伝わってくる。
始めは、微弱な振動が比較的早く立ち上がり、その後大きな振動として立ち上がる。そして振動はしだいに弱くなり、いつのまにか消え去ってしまう。
弦をはじいた後、振動が生まれ、そして消えていく過程が僕は好きだ。そして、特に低音域、つまり周波数が少ない音を目の前にすると、よりダイナミックにその美しさを感じ取ることができる。
人によって音楽の良い悪いを評価する基準はちがう。ある人は、歌詞をみる。ある人は演奏者の見た目を気にするだろう。そして僕は、ベースラインを基準に良し悪しを決めている。もうほとんどベースラインしか聞いていないといっても過言じゃない。
それくらい、低音は素晴らしいんだぞ。と声を大にしていいたい。
どうしてこんなにも低音が好きなんだろう。と僕は当然のように考えるのだ。今年はその命題について数十回は考えてみた。そして、なんとなくだが、「低音は、生きることを表現できる」ということがわかってきた。つまり「ベースの音の有る無いは、もう生と死」なんじゃないかと考えているのだ。
これに関しては、自分でも自覚がある。かなり怪しい説だ。都市伝説を聴いているみたいな気持ちになる。
けど、けれどだ。どうも確からしいと思うのだよな。だから、僕は以前「低音と生死」について一万字くらいで説明したことがある。よかったらあげますので気にある人は言ってください。
その文章の中でこんなことを書いた。
「ベースの弦をはじく。すると「ボーン」という地を這うような音が僕たちに伝わる。音階やリズムの前に、そもそも存在するか否かに意味があるのだと思う。大袈裟な話になるけど、そこに死生観を感じ取ることができる。」
「ベースの音が立ち上がり、そして消えていく過程で、僕は儚さを感じる。これは蛍の光をみているときのようだ。空中で点灯する蛍の光を眺めて、僕たちが美しいと感じたあとに、どこか儚さを感じてしまうのは、蛍の今後の余生を連想したからではなく、単純に、連続的に光ったり消えたりするからだろう。それは僕たちに「有ること」と「無いこと」を強烈に喚起させる。それが、きっと蛍と死生観を結び付けているのだ。」
なんとなくこんなことが言いたいのですよね。ちょっとわかりませんか?
で、それぞれのバンドでベーシストの毛色がまったく違うのだ。あるバンドは、めちゃくちゃ厚い地盤を作ろうとするし、あるバンドは健やかなグルーヴを生もうとするし、あるバンドはソリッドでスリリングな雰囲気を醸し出したりね。聞いていて面白いんだよ。
で、これだけ説明してようやく話ができるのですが、昨日はZAZENBOYSのライブに行ってきました。僕が尊敬してやまない吉田一郎が脱退し、新体制となった彼らのツアーだったのだ。その感想を、例によってベーシスト大好きおじさんとして書きたい。明日に、、、、
あ、吉田一郎の最高すぎる演奏を聴いてもらおうかな。ちょっと予習しておいて
いや、やばない?最高すぎるー!!!!!
今日も読んでくれてありがとう。よしだじゅんやは好きなものを語らせると長いです。よろしくお願いいたします。
ベースの無いことで、死を感じたことはまだ経験ないけど、生の演奏を聴くときのベースの振動って、心臓の鼓動を聞いている時ともっと単純なところでは同じ気持ちだなって思いました。血液を体にめぐらせていく感じかなあ、、。「低音と生死」、気になります!