抱きしめ方が分からない

花束を抱いたことはありますか。誰かのために買った花束でもいい。誰かからあなたに贈られた花束でもいい。パリパリとした音のする包みでふんわりとくるまれた花の束は、どうしてあんなに不思議な重さ、捉えどころのない形をしているんだろう。私はあれを抱くたびに、正しい腕や手の置き場所、丁度いい力加減などが分からず悩んでしまう。

抱きしめ方が分からないんです。

初めて花束を貰った時、たしか10歳くらいだった。地域の小さな音楽会の余興か何かで、1曲だけステージでピアノを弾かせて貰ったことがあった。演奏を終えてお辞儀をすると、ステージ袖から見知らぬおじさんが出てきて、私の腕の中に静かに花束を手渡してくれた。花なんて好きか嫌いかも考えたことがないほど無関心だったのに、私は急に腕の中のそれを愛しく感じて、驚いた。でもそれは柔らかいのか硬いのか、軽いのか重たいのかさえも不確かな不思議な感触だった。生き物とも物とも違う、普通の花とも最早何か違う感じのするそれを、私は強く抱きしめたいのにそうできず、とにかくただ落とさないように気をつけてステージを降りた。家に持ち帰ると、母が花々の葉や茎を適切に処理して、大きなガラスの花瓶に生けてくれた。おかげで彼らは割と長い間その強い匂いと美しさを保ち、やがて静かに、けれど堂々と枯れていった。

抱きしめるのは、むずかしい。

ある人が以前、人は人を抱きしめることなどできないんだと、私に言ったことがあった。人の肉体はそれで1つの個体だけれど、同時に目に見えないほど小さな無数の「粒々」の集まりでもあって、そうしてそれらは決して、触れ合うことができないのだと。僕たちは愛しい人の手を握る。それでも足りずに抱きしめる。体温を感じて、触れあったと感じる。繋がりを感じる。でも僕たちは「粒々」でもある以上、触れ合ってなどいないし、繋がってなどいないのだ、と。そして僕を食い潰す不安や虚無も、きっとそのあたりに由来するのだ、むにゃむにゃ、と。

今日も私の目の前には、

物言わぬ淋しい「粒々」の集まりが、毛布と布団にくるまっている。

触れてみても暖かいのか冷たいのか、柔らかいのか硬いのか、軽いのか重たいのか全て不確か。大切にしたい、花束みたいに、あなたの抱きしめ方が分からない。だからただ、近くにいる。もしかすると、いくつかの葉っぱを捨てなきゃならないんだろう。茎を切らなきゃいけないんだろう。でも、まずはしっかり栄養をとることも大切なんじゃなかろうか。

あなたは布団の中で食べ物を食べたら駄目だとものすごく深刻な顔で言うけれど、そもそもこれは私の布団だし、汚したらシーツを変えればいいんだよ。だからおひとつドーナツ、いかがですか。今ならあったか紅茶付き。飲み物だって毛布にこぼしたら洗えばいいし、乾かなかったら寝袋もあるよ。試しにこぼしてみてもいいよ。そしたら部屋の中でキャンプ気分が味わえるよ。寝袋に入ってYoutubeでキャンプ料理の動画でも見よう。ダッチオーブンで作る焼き林檎はめちゃくちゃおいしそうなんだよ。食べたくなったら、まぁダッチオーブンは持ってないけど、林檎ならうちにもあるんだよ。いつでも食べていいんだよ。お腹がいっぱいになったら寝ればいい。シーツや毛布が乾くまで寝て、乾いたらまたふかふかの布団で、別のことをしてもいいし、しなくてもいい。まだまだ冬なんだ、ゆっくりしようぜ。

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