突然だが、わたしはよしもとばななが好きだ。
卒論の題材にもするほどに。
この世の中は、こういうふうなことでいっぱいなんだ。よく見よう、ああいうよくない魔法を。外側はとてもちゃんとしていて、そこに人がぞろぞろと吸い込まれていくんだけれど、中には汚れて臭いものがいっぱいつまっているものって、きっとこんなふうにいっぱいあるんだ・・・。
引用:よしもとばなな『なんくるない』
ああ、なんて美しい文章なのだろう。
わたしの文章をよんでいてなんとなく気づいた人もいるかもしれないけど、わたしは常にひらがなと漢字のバランスを意識している。
それもやっぱりよしもとばななの影響なのだ。
よしもとばななの淡々とした高揚の文章は、耳がきこえないわたしの耳元で主人公がつらつらと物語を朗読しているような錯覚をおこすまでの力を秘めている。
芯のあるうつくしい細い声の背後にはBGMのような音楽が流れている気がするし、波が小石を転がす音、葉っぱを踏んだ音、すべてが自分の身のまわりでおこっているかのような不思議な体験ができるのだ。
さて、今回はわたしが小説を「芸術品」として好むようになったときのはなしをしよう。
わたしの最初の出会いは江戸川乱歩だった。
小さいころから解決ゾロリやあさのあつこシリーズといった、エンターテイメント性の高い小説が好きだったわたしは、図書館の小学生向けコーナーの本を読みつくしてしまった。
図書館の先生に「もうないの?」と聞くと、先生は嬉しそうにわたしの手を引っ張ってほこりっぽい本棚まで連れていったんだ。
「すこしだけ難しいかもしれないけど、江戸川乱歩は偉大なのよ」
彼女はそれだけを言い、一冊の本をわたしの手のひらにのせた。
江戸川乱歩『怪人二十面相 ~少年探偵団シリーズ~』
その本は日に焼けていて、表紙の紙もあちこちが砕けていて、ほこりの匂いがした。
さっそく家に持ち帰り、寝るまえに日課の20分間読書をしようとおもった。
ところが、次に時計を見たのが2時間後だった。
「ヒョイ」、とか「電話が切れました、ブッツリ。…どうしたことか、にわかにムッツリと」とか、文章としてのユーモアを感じたのは江戸川乱歩がはじめてだった。
本は「展開をおもしろく読むための最低限の情報をのせている」ようなものだったのが、概念が覆された瞬間だった。
(とはいっても、江戸川乱歩もどちらかというと娯楽小説のジャンルに入るのだが)
そして、わたしは文章としての美しさを求めて近代文学の海に入水した。
樋口一葉『にごりえ』、田山花袋『蒲団』、川端康成『古都』、夏目漱石『三四郎』を経て、ついに運命的な出会いを果たすのだ。
谷崎潤一郎『刺青』
すごい、の一言に尽きた。
これまでの小説はいずれも、「うつくしさ」「はかなさ」をつらねている文章だったのが、谷崎潤一郎であっというまに覆された。
江戸川乱歩風に表現すると、「まさか、そんなこと。谷崎潤一郎が黒い煙幕を立てながら近代文学の常識を覆してしまったではありませんか。アッ。といっているうちに頭が彼のことでいっぱいになるのでした。」
そう、谷崎潤一郎はこれまでの日本語的な「うつくしさ」とは大きくかけ離れた、オナニーをしながら書いたかのような男性ホルモンに満ちた文章で、一周回った「うつくしさ」を感じた。
谷崎潤一郎のオナニーのような文章は好まない人も多いようだけど、わたしは彼のフェロモンが紙やインクから香ってきそうで、毎回心拍数がはやくなるのだ。
いや、ちょっとわたしの性癖を暴露しているようで恥ずかしいのでここまでにしよう。
谷崎潤一郎との出会いから、村上春樹や村上龍を経て、すこしオナニズムな文章に疲弊してきたところによしもとばななとの出会いが待っていた。
わたしがほんとうに好むのは谷崎潤一郎や村上春樹系なのかもしれないが、読んでいて楽なきもちにはならない。
むしろ息苦しくなるばかりだ。
そこで、よしもとばななをよむとキンモクセイのような香りがしてきて、ホッとする。
これがよしもとばななを好む理由だ。日常品で例えるとファブリーズみたいな存在なのだ。
よかったらみんなのすきな本や映画、芸術品についても知りたいなあ。
おしえておしえてわたしに出会いを運んで。
今日のダーリンは意外といい線いくと思います。
たのしみにしてる性癖暴露
言葉の流れや音の感じが美しくて、透明感のある文章、私も好きです。
小川洋子、読んだことありますか?
仄暗い話が多いけれど、淡々と美しい言葉がつづられていて、とっても綺麗なのでお気に入りの作家です😌
小川洋子さん、ありますよ。なつかしいなあ
『博士が愛した数式』の映画から知ったのですが、原作をよんでみてとても好きになりました。
まだ博士以外は読んでいないので、読んでみようと思います。ありがとう!