no title

流石にこれ、このまま流したらまずいよね、たぶん。

彼女は足元のバケツに視線を落としていた。何が入っているのかと少し近寄ると、匂いですぐにペンキと分かった。

流すってどこに

私が聞くと、

あそこの、手、洗うとこ

と、敷地の隅に設けられた薄汚れた手洗い場を指差す。

ああ、まずいだろうね

私がそう答えると彼女はまたバケツに視線を落とし、めんどくさ、とこぼす代わりに、口元だけで小さく笑った。結局のところその後バケツの中身がどうなったのか、彼女がそれをどのように処理したのかは、知らない。手洗い場には夕方、笑えるほど無遠慮に何か黒い液体が流れた跡、それが飛び散った跡がこびり付いていたけれど、あのバケツの中に入っていたペンキが一体何色だったのか、そもそも本当にあれはペンキだったのか、私はたしか見ていない。見ていないと思う。

今夜は台風が来るとかで雨が降っているけど、まださほど強くない。スマホを片手に、たらたら歩いて家に帰る。昼間腐った匂いを放つドブのような黒い川も、夜は街灯の光を浴びていっせいにきらきらする。こみあげるように突きあげるように、人知れず今夜、これは溢れるだろうか。

帰り着いた部屋の雨戸を閉め、洗面所で手を洗う。シリコン樹脂なんかの入った塗料が皮膚に付くと、薄め液を使わないとなかなか落ちないのだと知る。諦めてコーヒーを淹れる。少なくとも、夜のあいだは、私は安全だと感じる。

 

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