受容

字幕上映している数少ない映画館の1つ、その真ん中より少しだけ右後ろより、もう3度も見ている人の隣の席でチュリトスをかじりながら、私は初めてその映画を見た。
誰かと映画館に行くのは、久しぶりかもしれない。
見終わってコーヒーを飲みながら感想を語り合った。音楽や声にも演出効果があるのだという。私にとっては、大きな発見だった。音のない世界も好きだし、音の世界も同じくらいすてきだ。音か、そうでないかは問題でないよ。大事なのは中身じゃないか。

同じ映画を見ながらも、違って見えている。
その事実はちょっぴりさみしくて、ちょっぴりうれしくもあった。こうして誰かと感想を語り合うのがうれしかったんだ。自分の中に、相手に語るべき価値のある言葉を見つけられた気がした。

私には、家族で映画を観に行った記憶がほとんどない。昔、父が私と妹をポケモンの映画に連れて行ってくれたくらい。ずっと小さかった妹と私は、ルカリオになったりミュウになったりしてポケモンごっこをした。飽きることなく、それこそ夢中になって。二段ベッドに半分占領された狭い子供部屋で、ミュウとルカリオの姿は何度も再現された。言葉なんてわからなくても、幸せだった時代。
父とは映画の感想を話すことはなかったはずだ。大人になった今でもね。呆れるほど会話のない父と娘の間で、借りてきたDVDの映像はただ流れていき、いくつかの本が交換される。
「読む?」「うん」、あるいは、「ありがとう」「もう読んだのか」。二言で終わる会話。そういうのに私は慣れてしまっていた。

「お父さんと話すの嫌か?」
中学生の頃、私は「うん」と答えた。
父の言葉を聞き取ることに失敗するたびに、私は苦い思いを味わっていた。いつしか、「私に話しかけないで」と思うまでに。
無言の日々を積み重ねた父との間に、話すことなんて今更見つけられない?

声か、声でないかは問題でないよ。大事なのは中身じゃないか。
語られずに済まされる言葉は山ほどある。そのいくつかでも口に出してみたらいい。語るべき価値があるかどうかは、言ってみなければわからない。

閉ざしていた耳が、音に、声に向けられていく。
沈黙を破ることは、案外、簡単かもしれない。

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