グレープフルーツの食べ方

会いたくないからといって、愛していないわけではない。

と、思う。たぶん。

あ、今、

自分で書いてうんざりした。

いかにも、いかにも私が言い出しそう。

なぜ文字にした?

うんざりだ。もう沢山だ。

飽き飽きだ。

幻滅だ。お終いだ。

耐えられない!ね。

 

〜グレープフルーツついて〜

会いたくなくても、会いにいかなきゃいけない人がいる。

そういうことや、そういう人は、おそらく時々は誰にだってある。

「会いたくなければ会わなくていい」、そう言ってくれる人もあるけれど、

そうは言っても会わなくては、どうにも仕様のないこともある。

「会いたくなければ会わなくていい」、そう言ってくれる人だって、

それを分かっていて言うときは苦しいのだ。

あるいは実のとこ、そんな人の大半は、心底まるきりどうでもいいのだ。

違う。どぉーだっていいのだ。

私もまた、

どぉーだっていいと思えたら、きっとさぞ晴れやかに、どぉーだっていいだろうと思う。

それはもう最高にどぉーだっていいだろう思う。

私も時々、そんな感覚になることはある。

どぉーだっていい。ああ、どぉーだっていい。

けれど、私は、会いたくない人に会いにいかなくちゃならない。

そしてその人を、愛している。

愛しているということがどういうことか問われるといよいよ心底嫌になる。

でも少なくとも、大切に思っている。大切には思っている。そういう場合には、

ああどぉーだっていい、と、言ってはみても、すっかり爽やかになることはできない。

そして爽やかになれないからといって、(これがよく勘違いを起こすポイントだが)、

それは私が、会いたくはないが愛している人の、なにか為になっているということではないのだ。

愛している、と、思うだけでは何にもならないのだ。

大切に思っているだけでは、なんにも。

そうだろう。大切に思われながら、深く愛されながら、殴り殺される人間はいる。

そして愛しているから殴り殺すのと同じように、

私は、愛しているから会いたくないのだ。きっと。そんな気がする。認めてはどうか。

会いたくなくても、私は会いにいく。

しかしきちんと会いにいくからといって、

ましてやそれがあなたを愛しているからであったとして、

それはあなたにとって、なんの救いにも足しにも実際はならない。

それは必要を満たすが、あなたを満たすわけではない。

それは最後に私の中で、些細な辻褄合わせの材料となるに過ぎない。

それは最早あなたには、果てしなく関係のないことだ。

そしてそれは愛なるものとも、きっと果てしなく関係のない話になる。

 

本当はとてもシンプルなのだ。

とても簡単なことなのだ。

とても簡単なことはとても本当すぎて、

私にはとても言葉にできない。

そんなのとても耐えられない!ね。

 

〜食べ方について〜

「わたし何歳に見えますか?」って、白髪混じりのおじさんに聞かれたことがあって、その時35とかですか?って答えたんだよね、実際は40代に見えたけど。そしたらおじさん、「あなたは優しいね。でも嘘つきだね。」って言ったんだよなあ。

ふ、たしかに!

 

 

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