だんだん生きることが上手くなった

どうも私はモテると思われている。なぜ?

メイクやファッションや、努力して身につけるモテテクというものがあるのかもしれない。けれども私は、特に努力らしい努力をしてこなかった。そうじゃなくて、なにか生きているうちに自然に身につくものがあるのではないかと思う。
順応。調和。
それがきっとモテの正体なんじゃないか。

だんだん生きることが上手くなった。それだけのことだ。
例えば、住んでいるうちに家の間取りに慣れていくようにね。引っ越したばかりの時は外から帰ってくるたびに電気のスイッチを探して壁を手探りしたものだった。今では狭い部屋の中、目をつぶってだって歩き回れる。フライパンやスプーンがどこに入っているか、見なくてもわかる。キッチンに合わせて馴染んでいく身体、感覚。
それと同じで、歳をとるごとに自分の身の丈にあった生き方をできるようになるのかもしれない。周りの人がどんなことを求めていて、それに対して自分にできることは何か、わかるようになる。いや、はっきりとはわかっていなくても、自然にそうやって動いている。

かわいさ。やさしさ。一生懸命さ。明るさ。鋭さ。素直さ。
どんな風にして自分というものが形成されたのだろうと思うと、不思議だ。
どうだろう、今の自分。案外悪くないな。でもそれはモテることを自覚したせいじゃない。
本を読むこと。絵を描くこと。文章を書くこと。うまく会話を返すこと。笑顔を作ること。
それらは私を形づくる要素の一部になっている。以前は、どれひとつとしてうまくできなかったのに。今はただ、自由に動けることがとてもうれしい。

恋人がいないまま20歳を迎えた時、おそらく一生、誰かと付き合うことなんてないのかもしれないって思った。なんだろうね、この焦り。恋人がいたことがないという劣等感みたいなもの。
モテたいと切望した。モテることには何の意味もないなんて、その時の私は知らなかったから。どんなに上手に生きることができても、どんなにかわいくなっても、モテることが目的であるのなら意味はない。

むしろ私は、不器用な人を好きになる。えんえんと人の波にもまれ続けても、決して失われない不器用さ。変えようのない自分を持っている人。生きることが下手だけど、それが自分だからしょうがないなと笑っている。
どうかそのままでいてください、と思う。誰かに合わせて、無理して、自分を変える必要なんてないんだ。みんなに好かれるようにとがんばる必要なんてない。

「調和」や「順応」は、生きやすさを与えてくれる。その代わり、失われてしまうのは何だろう…。
誰かの不器用さを見る時、どこかへ消えてしまった自分のそれを思い出すのかもしれない。

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