さあこの違和感を説明せよ。
ひと月ほど前からロシア人の友達にロシア語を教えてもらっている。
彼は、変人レベルの日本語オタクである。ロシア語を教えてもらう傍ら、日本語についてあれこれ質問されるのだけれど、それが私には新鮮で、飽きない。少々面倒くさくもある。
どこで手に入れたのか知らないが、彼はロシア語を教えるのにずいぶん古い教科書を使っている。表紙には鎌と槌の、あのソ連マークがついている。日本語で書かれたその教科書の、文体からは昭和臭が立ちのぼる。「ごらんなさい」「声を出してとなえなさい」とか、今どきの語学の教科書にはついぞ見かけないような表現がふんだんに使われているのだ。
一方、私のロシア語の先生は、漢字の少なさが気になるようで、「この教科書には漢字が少なすぎると思わないか?」と聞いてくる。
・つぎのようなちがいがあります
・口をあまりひろくあけず発音される
・ふつうに発音される子音は硬子音とよばれます
特に読みづらさを感じるわけではないが、ただひらがなが多いというだけで独特な印象を与える。漢字の使い方は人それぞれなので、いいとも悪いとも言えないのだけれど、なぜわざわざひらがなにしたのか、気になるといえば気になる。
いくつかその理由を考えてみた。
①昔の文章は漢字が少なかったのか?昭和のある時期に漢字の少ない文章スタイルが流行ったのだろうか?
②漢字にするかひらがなにするか、本を読むごとにバラバラでは読みづらい。この出版社では「この語は漢字、この語はひらがなに統一しましょう」というルールを採用していた?
③あるいは教科書だから、誰にでも読めるようにという配慮なのか?それにしては難しい漢字を使っているのは変だ。
本当のところはわからない。
そんなこと聞かれても、というのが正直な気持ちだ。「書いた本人に聞いてくれ」と言いたいが、この教科書の著者だって、数十年後自身の書いた文章の漢字の少なさに、ロシア人と日本人がそろって首を傾げる光景を想像しなかっただろうと思う。
この間は、「たかが」という言葉について話題になった。
きっかけは確か、友達が送ってきた1枚の画像だった。
・全力より余裕
・品質より速さ
・仕事より家庭
・・・・
こんな感じのいくつかの価値感の羅列があって、それについて話していた。最初彼はロシア語でこう言ったのだった。
Я согласен максимум с половиной.
どういう意味?と聞いたら、日本語で言い換えてくれた。
「高が半分に賛成だ」
なるほど、максимум、つまりMaxで半分に賛成するということか。ロシア語と日本語を頼りに、私はこう解釈した。
「せいぜい賛成できるのは半分だけだ」
すると、友達はこんなことを言う。
「せいぜい」を調べると「たかだか」「たかが」と同じ意味が出てくるのに、なぜ「たかが」は使えないのか。
大抵このようにして日本語をめぐる議論が始まる。
そして私は日本語について聞かれても大抵うまく答えられない。日本人のくせに。
「たかが」には、「高をくくる」という言葉にあるように、見くびるとか低く評価するみたいな意味があると思うんだよね。「たかが半分ぽっちにしか賛成できないね、もっとマシなのをよこせ」みたいな気持ちで使うならありなのでは?
いやいやでも、Я согласен максимум с половиной. にそこまでコケにするような意味合いがあるものか?私はロシア語に対して十分確信を持てない。
ただ、「たかが半分に賛成する」という日本語の違和感ははっきりと感じ取っていた。それが何なのか、説明できないもどかしさがある。
ネットで検索していたら、とある論文に行きついた。
中渡理恵子『副詞「せいぜい」 「たかだか」 「たかが」の意味と用法』(2022)
結構最近書かれたもののようだ。読み始めてすぐのところ、先行研究がずらずらっと述べられている。たかが単語の用法にこれほど多くの研究者が関心を寄せているという事実に驚いた。
逆にいえば、そんなに研究されるほど難解な問いなのかもしれない。
論文では、「せいぜい」 「たかだか」 「たかが」それぞれについて、置き換えが可能かどうかが検討されている。
「あろう」「だろう」が文末にくる「推量」は6 例が数量詞を伴う。文型は「せいぜいN(数量:時間、期間、人数、割合) (くらい)だろう」である。 (5) (6)共に、最大限を見積もる「たかだか」には置換可能であるが、 「歩いてたかが五、六分であろう」 「たかが持続して…くらいでしょう」と「たかが」に置き換えると違和感を覚える。これは推量があくまで見積もりの予測であり、 「マイナス評価」を含みにくいためだと考えられる。
「半分に賛成する」は、「あろう」「だろう」が文末にくるわけではないが、参考になりそうなので引用する。
例文のところは端折ってしまったが、推量の用法において、「せいぜい」を「たかだか」と「たかが」に置き換えてみた場合、「たかが」では違和感が生じるのには、「マイナス評価」に原因があるのではないかと述べられている。
「たかが」には、「せいぜい」「たかだか」にはない特徴的な構文がある。「たかが〜、されど〜」というのがそれだ。「たかが1円、されど1円」の例を挙げると、「たかが1円と馬鹿にしていたら、1円足りないだけで困ったことになる」という意味だが、1円の価値を侮る感覚で「たかが」を使う。
そのマイナス評価こそが、「せいぜい1円」「たかだか1円」とは異なる、「たかが」独特のニュアンスを生み出しているのではないか。
「たかが半分しか賛成できない」という文に当てはめて考えると、「半分」という量そのものに対して低く評価しているとは言い難い。「たかが半分ほどしか賛成できないだろうなと低く見積もっていたら、よくよく説明を聞くうちに意外と全面的に賛成できてしまった」みたいな使い方ならOKなのだろうか。
そういえば、なんの話をしていたんだっけ。
「ところで、ハリーポッターをなぜアクセント通りの「ハーリ」と記載しないのか?」
「たかが」について返答を考えている間に早くも次の質問がきた。
ハリーの正確なアクセントを私は知らなかった。99%の日本人は、「ハーリ」ではなく「ハリー」だと信じているだろう。
逆に私はこう問いたい。なぜロシア語では発音通りのХарри ではなく Гарри と書くのか。そう、ロシア語のハリーポッターはカタカナにするなら、「ガーリ・ポーティル」みたいな発音なのだ。h の音は х で表記できるはずなのに、どうして?
この人とやり取りしていると、普段全く気にしないでいたことに気付かされる。こういうことを考えるのは嫌いではない。