「畑をやりたいので、仕事を減らしたいです」

それを伝えるのには勇気がいった。

物価高が続くこのご時世、安定した収入を自ら手放してしまっていいのか?
今はよくても後々お金に困るかもしれない。
畑を始めるなら定年退職後でも遅くはないだろう。老後の楽しみにとっておけば?

それでは遅すぎるのだ。

このままの状態で仕事を続ければ、私は何のために生きているのか見失ってしまうだろう。自由のない人生に生きる価値などありはしない。お金に困らず生活が保障された牢獄に安穏と居座り続けるのは、死んでいるのと変わらない。決まりきった毎日を、それでも生きねばならないのか?
将来困るとしても、その時はその時だ。畑さえあればなんとかなるだろう。
本当はすっぱり仕事を辞めて足を洗ってしまいたいところだが、最低限、屋根とお風呂のある暮らしをしたい。
じゃあ、せめて、一日の半分でも畑ができればそれでいいか。

そしてもう一つ、どうしても今でなければいけない理由がある。

一緒に過ごせる時間はあとどれだけ残されているだろう。祖父母が生きている間に野菜の育て方を教えてもらわなくてはいけない。
先祖代々受け継がれてきた畑を守ることが私の使命だ。

「仕事をなんだと思っているの」
とか叱られたらどうしよう、と考えなかったわけではない。畑は私にとって仕事より遥かにずっと大切にしたいことだが、会社にとっては、仕事時間以外の従業員の私生活などなんの価値も見出せないものだろう。
近々退職する予定の人もおり、さらに私が半日不在になれば、その分正社員の人の負担は増すことは十分想像できた。
もし反対されたら、とっとと辞めてどこか畑の近くで別のバイトを見つければいい。そしたら会社はまた別の人間を雇うだろう。
(脳内で)辞表は準備できた。
覚悟を決めて、いざゆかん。

拍子抜けするほどあっさりと、上司は承諾してくれた。
それどころか、オクラを美味しく食べる方法を教えてくれた。実があまり大きくなりすぎると固くなるため、小指くらいのサイズで収穫してしまうといいのらしい。
思わぬところに畑仲間を見つけてしまった。
仕事の割り振りは調整してくれるとのことで、全く障害とならなかった。まあ、そんなものか。
それにしてもみんないい人すぎるだろう。変人の私を温かく受け入れてくれる。まだこの場所で働き続けられることに感謝した。
労働者と職場はお互いを取り換え可能なものとして認識してはいても、働いている人間の心の底には、かけがえのない個性ある存在としてみてほしいという願いがやはりあるのだ。

とんとん拍子で物事が進んでいって、怖いくらいだ。植田さんを説得し、引越しが決まり、うまい具合に4月には畑を始められそうなのだ。
本当にこれでいいのかな。
不安と期待の間を心は行ったり来たり。
そうするうちに日々は着実に過ぎていき、もう引き返せないところまで来ている。引き返す気は毛頭ないが。

絶対に譲れない決断をすることは、一生のうちに幾度あることだろう。
思えばロシア留学も、教員になることもそうだったし、結婚も同じかもしれない。
私がこうする!と決意しなければ、何もかも実現しなかった。誰かに反対されても(実際は誰にも反対されはしなかったが)、失敗するとわかっていても、どうしても貫きたい意志だった。
「どうしても」とか「絶対に」という感情になる時の私は、「普通ではないこと」をしようとしている。
世間で「普通」とされていることから自由でいたい。「今まで通りの自分」から自由になりたい。
これまでの自分だったら選ばなかった道を、自分の意思で進んでいく。これまで乗っていた流れに抗って、離脱しなければいけない。

いかにも強靭な意志を持って進んでいるように見えるかもしれないが、実をいえば心の中は迷いだらけだ。
本当にこれでいいのかな。
同時に、わくわくしてもいる。
これでいいかどうかはやってみてから考えればいい。この道がどこへ続いているか知りたいから、私は生きているんでしょ?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。