理性と感情について2

 

昨日の文にあまりにも疲れが滲み出ていたので、昨日の僕のしりぬぐいをしよう。

例えば、街頭でティッシュを配っている人がいます。知っての通り、ほとんどの人があれを受け取りません。僕もサンプリングのバイトをしたことがあるからわかるのだけれど、良くて5人に1人もらってくれるくらいだ。
ティッシュがもらえるというメリットがあり、それに対するコストが0なわけですから、どう考えても自分のためを思えば、ティッシュをもらうほうが良いわけです。なんであのティッシュ受け取らないのかしら?と考えてみて。

おそらく、受け取った後にしつこい勧誘があるのだろう。とかティッシュに触れた瞬間感電死するかも。とか、家の財産を根こそぎ持っていかれるかも。とか万が一の損害を想像してしているんじゃないかな。理性をはたらかせれば自分にとって得か損かを正しく判断することができるのに、構造にブラックボックスが現れると、人は感情で補完しようと試みる。そして結果として誰も得をしていない。ということが様々な物事で起こっている。と僕は考えている。

なにもティッシュに限った話じゃない。これは新たなテクノロジーや新興のサービスに顕著な傾向だ。例えば、自動車の自動運転の議題になると、必ずひとりぐらい「機械にまかせるのは不安。だって何かしらのミスを犯す可能性があるでしょう。人が運転しないと心配だわ」というおばちゃんが現れる。僕は大体において寛容な人間なのだけれど、そのときに関しては、厳しく問い詰める。

「飛行機に乗られますよね。とっくの昔に自動運転してますよ」
「どう考えても人間のほうがミスを犯しますよ。機械に任せたほうがよっぽど安全です」
「あなたはハンドルを右にきると、タイヤが右に動く理由を説明できますか?そもそも車が機械ですよ。どうしてあなたは車を信頼して運転することができるんでしょう」

ざっとこんなことを言う。性格が悪いなあ。けどさ、質問に対して理性的に答えることができる?議論の余地があるならお話ししよう。

ティッシュのサンプリングならまだしも、テック系の話になるといよいよブラックボックスが謎に包まれたものになる。ここまでくると、「あのレイヤー通ると信号がさあ」と基盤を片手に説明することがソリューションにならなくなっていくのだ。つまりブラックボックスそのものの理解が物事の解決につながるわけではないのだ。

だから、「感情には感情を」なのである。

どうしてテックヒステリックおばちゃんが車を運転するようになったのだろう。子供の頃、あんなにも不安だった運転をどうして僕はこなしているんだろう。それは間違いなく「あれ、意外と運転できんじゃん」と「あれ、これめっちゃ便利じゃん」という体験と、それに伴う感情の動きが後押ししたのだ。

どうして車の座席に座るにいたったのかを考えると「あれ、かっこいいじゃん」とか「やばい、みんなのってんじゃん」とか、不安にかかるコストをぎりぎりまで下げたり、まったく違う感情を呼び起こす企業の努力があったりする。「やっちゃえ、日産」

僕は親友に「お前ほどうさん臭い人間はいない」と言われたことがある。たしかとっても傷ついた思い出があるのだが、今はへにも思っていない。むしろ僕の説明がたりなかったなと反省をしているくらいだ。僕はけっこう新しいものを作ったりするのが好きなので、身近な人からすると僕に含まれるブラックボックスをみて不安になるんだろうね。本当にごめん。

だから僕は「あれ、なんかおもしろそうじゃね?」と「あれ、意外と便利じゃね」という感情を、並行して利用者に与えようとしている。そこから先は企業秘密だなあ。

今日も読んでくれてありがとう。僕のダーリンは、現在「愛着をわかせる」というフェーズにいます。利用者にも、もちろんメンバーにもね。

参考文献「Thinking, Fast and Slow」Daniel Kahneman

“理性と感情について2” への2件の返信

  1. 「やっちゃえ、ダーリン」

    >>不安にかかるコストをギリギリまで下げる
    これはなるほどと思った。なんとなく「慣れた」っていう言葉で説明してたけど、ピンときてなかったんだよね、ありがとう。

    吉田くんのいう愛着がどんなものをさすのか、よくわかってないのはわたしにまだ愛着がわいていないからなのかな?

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