窓辺のレモン

一年が過ぎた。6月1日、お墓参りに行った。

父と母とぜんくんと、車で2時間かけて走っていく。トンネルをいくつか超え、山と田畑の間の道を進んだ先に、動物霊園があった。
畑で取ってきた釣鐘草とピンクの百合を供え、持参してきたペットボトルから水をつぎ足す。
「今頃レモンちゃんはお空の上で走り回っているんだろうね」母が言った。
そこにレモンはいないと知っていながら、私たちは墓石に向かって手を合わせる。
ありがとう。
空の向こうでも元気でいてね。
死者に対して「元気でね」というのもおかしいけど、目には見えない世界を信じたい気持ちだ。

お墓参りから戻って実家に立ち寄った時、和室の壁に絵はがきが飾ってあるのを見つけた。ぜんくんのイラストと「お誕生日おめでとうのメッセージ。一目で妹の書いたものだとわかる。iPadでも手書きの味わいが出ている。5月誕生日の母に贈られたものだった。
こちらを向いて舌をぺろっと出しているぜんくんのイラストの反対側では3匹のダックスが鯉のぼりのように胴を並べている。ねむちゃん、ぐーちゃん、そしてレモン。
レモンのことも描き加えてくれたのが、私は嬉しかった。離れて暮らす妹も、レモンのことを忘れてはいない。
その日の朝、家族4人で海水浴する夢を見たことを思い出した。しょっぱい水の中で溺れそうになっている私に「大丈夫だよ」と声をかけてくれる。安心して岸まで泳ぎ着くことができた。

もう一年経ってしまったんだなと思う。四季の折々に「去年はまだレモンがいたんだな」とふと思い出すと、どうしようもなく悲しい気持ちになる。この春、実家の近くに引っ越した。子供の頃よく遊んだ公園やいつも散歩していた道を歩くと、ふっと記憶が蘇ってくる。日差しの中で金色に光る毛皮の温かさ、ふわふわの頭の手触り、不意に触れた鼻の冷たさ、抱っこした時の重み、爪で引っ掻かれた時の痛み。
こんなにそばにいたのに、いなくなってしまったなんて信じられない。
きっとこれからレモンのいない時間の方が長くなっていく。私はそれに慣れなくてはいけない。

レモンのいない世界で、私は黄色の酸っぱい果実を探し求める。他の誰かにとっては唐揚げに添えられたただの飾りかもしれないが、私にとって特別な意味を持っている。もうこの世にはいない一匹の犬のことを思い出させてくれるから。
例えば、ガラスケースに並べられたケーキの中にレモンタルトを見つけたら嬉しくなる。みかんの花は珍しくもないが、レモンの木に花が咲くと思わず見入ってしまう。つぼみは紫色なのに花が開くと白い。
レモン味の炭酸水、レモンシャーベット、レモンティー、レモンの柄がプリントされた傘、レモンのモチーフのペンダント、レモンイエローの絵の具。
果物のレモンが手に入った時は、輪切りにしてレモン水を作って飲むか、プレーンヨーグルトに絞って食べる。甘さを加えない状態でストレートに酸味を味わう方法だ。
レモンの片鱗を感じられるならなんだっていい。レモンマートルとカモミールのお茶でも。トムヤムクンの中のレモングラスでも。何を食べても何を飲んでも、私が大好きなレモンにまた出会えるわけはないが、ふわっと広がる爽やかな香りに包まれると一時心が癒される気がする。

カラオケで歌う曲の4分の3は絶対に米津玄師。それほどこの人の音楽が大好きなんだけど、Lemonだけは避けがちである。他の作品と比べても遜色なく素晴らしい曲であるのだろうなとは思うけど、なぜだか心が動かされないのだ。もっと別の例えば Melonとか Cinnamon といったタイトルだったなら、抵抗感なく聴くことができたかもしれないが、曲名も「大切な存在を失った悲しさ」というテーマもあまりに一致しすぎてかえって嘘っぽく感じられてしまうのだ。偶然、犬の名前がレモンだったに過ぎないとしても。おそらく私は、たとえ世界一のアーティストであろうと誰であろうとこの悲しみを代弁してほしくはなくて、いっそ私は自分でLemonという曲を作るしかない。めちゃくちゃおこがましいことを言っているとはわかっている。でも、そうでなければ彼のLemonを聞く資格はないとすら思う。

お別れした後どんなに悲しくても、一年も経てば平気になるだろうと楽観していたがそれは間違いだった。むしろ時間の流れを思うと切ない気持ちになる。
大きすぎるよと思う。悲しみが大きすぎて、涙が溢れてくるんだ。
どうしたらいい?
悲しいのを我慢することは不可能だ。こぼれ落ちる涙を止められない。考えないようにするのも難しい。忘れたふりをしても思い出す。心の奥底では忘れたくないと思っているから。
どうしたらこの悲しみと向き合うことができるだろう。
私は音楽を作ったことがないし、どう表現していいかわからないので、代わりに絵を描くことにする。
この場所からよく庭を眺めていたね。窓の向こうには腰掛けられるベンチみたいになっていて、その上に畑でとれた冬瓜が置かれている。社会人になって1年目か2年目のお盆休みに実家に帰った時の写真を見て絵を描いた。
ばーちゃんに見せたら、「耳に花を飾っているの?」と聞かれる。
違うよ。耳がひっくり返ってるだけだ。でも確かに、花のようにも見える。光と影、幸せと悲しみの色が混ざり合う。窓辺のレモン。きみはもう向こう側に行ってしまった。

死ぬ前に何もしてあげられなかったとか、悔いの残るお別れだったわけではない。これ以上望めないほどレモンは長生きしてくれた。何気ない景色の中にレモンがいることが、私にはとても幸せなことだった。「ありがとう」の気持ちでいっぱいで、泣けてしまうんだ。本当にたくさんのものを受け取って、でももう何も返すことができないなんて。時々思い出して、花を供えることくらいしか。
どんなに好きでいるかを伝えるのは、生きている間にしかできないんだなと思う。命ある限り精一杯、目の前の相手を大切にしなくてはいけない。

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