私がベジタリアンになったわけ

高3、受験が終わった日のことだったと記憶している。
「今日から肉と魚を食べない」私は宣言した。

小さい頃から私は肉と魚を食べたくなかった。
なぜ高3というタイミングで菜食主義を実践し始めたのかというと、もう十分大人になったのだから、肉と魚を食べなくても問題なく生きていけると判断したから。結果、野菜と豆と牛乳と卵だけでも死にはしないと身をもって実証できた。

肉と魚を食べたくないのは、簡単に言えば痛いのがいやだから。
食卓の上の唐揚げにも羽を生やして生きていた頃があった。人間に食べられるために、鶏は殺されないといけなかった。きっと痛い思いをして…。
以前は生き物だった肉が感じていた痛みを、考えてしまうから食べたくないんだ。

家畜という考え方に賛同できないということを、理屈として言ってみたりもする。

食肉として生まれて、食肉にされるために殺される家畜。彼らの命には自由がない。
野生のキツネがウサギを狩る時、そこには正々堂々、公平な戦いがある。食べる側も食べられる側も自分の命をかけて戦う。どちらも自由な命を生きている。

よく母から聞かされた。昔は鶏をうちで飼っていて、食べるときは首をひねる。じーちゃんもそうして鶏をしめていたんだよ、と。
私は鶏を自分で殺したことはない。生きている鶏の首をひねったら、鶏は暴れるだろうなぁ。だってそりゃあ、痛いはずだ。
首を締められる鶏の苦しさを、想像しただけで悲しくなってくる。

鶏を手にかけることができない私に、果たして肉を食べる資格はあるのだろうか?

他のものの命を奪ってまで肉を食べたいとは思わない。そんなこと言ってたら、野菜にも命があるのにそれを食べるのはいいの?って話になってしまうかな。
生えてる野菜を自分の手でつかみとることなら躊躇なくできるし、幾度となくやってきたことだ。それに、植物を柵で囲ったり畝に並べて植えたとしても、そこに根をはるものを本当の意味で捕まえておくことなんて不可能だと思う。人間がやっていることは結局、そこに育った野菜を摘み取ることだ。野菜を畑に閉じ込めているのではない。

肉の話に戻そう。

自分で殺さなくたって肉を食べられる社会に生きている。
私だって食べようと思えば食べれるよ。アレルギーでもなんでもないし、おいしいこともわかる。
考えずに食べれば済むことだ。かつて生きていたことには目をつぶって、食べ物としての肉だけ味わえばいい。

熱海で海鮮丼を食べた。めちゃめちゃおいしかったんだ、それが。
くぼきさんならどんな文章を書くのかなと思ったけど、本当においしいものを食べるとき、私は言葉もなく感動してしまう。

新鮮な魚を食べると命をもらっているのを実感する。例えば坂道を歩いていて体がじんわりあったまってきたら、そこに魚の命が使われているのを感じるんだ。
海を自由自在に泳いでいたアナゴやマグロやカツオたち。今、こうして自分が生きているのはかつては別のものとして生きていたものたちが、私の中で命に変わっているおかげだ。

毎日食べているものへの感謝を忘れずにいたいね。

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