善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
ちょっと前に父と2人で電車に乗ることがあって、その時父は夜勤が終わった後に映画を見に行くと話をしていた。親鸞の映画が名古屋で見れるという。私は見に行かなかったが、予告編を見ると実写ではなくアニメ映画のようだ。登場人物が坊主頭なので、子供の頃保育園で見た一休さんのビデオを思い出した。
映画がよほど気に入ったのか父は本も読み出した。曽祖母の本棚の中には3巻セットのうち1巻と2巻だけしか収まっていなかった。3巻目は読まなかったのかなと父は不思議がっていたが、自分で新たに3巻を買ってきた。曽祖母が買い求めたのと同じ吉川英治文庫の親鸞だ。なかなかのロングセラーと言えよう。数十年後の今も本屋に並んでいる。
うちの家が仏教に傾倒しているという認識はなかったが、曽祖母は信仰していたのだろうか。祖母の家に仏壇がある。祖母はご飯を炊くたびに3つの器にご飯を盛りおぶくさんを供える。仏壇から下げたおぶくさんはちょっぴりお線香の香りがついている。お経をあげるのはせいぜい盆と正月くらいに減ってしまったが、子供の頃はお経のリズムが好きでよく口ずさんでいた。
仏教に関心があるわけではなかったが、人が読んでいる本はなぜだか読みたくなってしまうものだ。かつて曽祖母が手にし、父が読み終わった後の親鸞はかくして私のもとに回ってきた。1巻と2巻はいかにも古本という体で、文字が小さくふりがなも少なめでだいぶ読みづらいものだったが、新本の3巻は現代人に合わせて読みやすくなっている。
親鸞は何度か名前を変えている。十八公麿、範宴、綽空、善信。最終的には親鸞になるので親鸞と呼ばせていただこうと思う。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
親鸞のこの言葉の意味を理解したかった。
善人でさえ救われるのだから、悪人が救われるのは当然である。なぜだろう?考えれば考えるほど不思議な一文だ。
ちょっとした出来心から明確な殺意まで動機は様々あるとしても、人間が悪事を働くのは止めようがないのだろうと私は考える。だって、地獄に落ちたい人間はいないだろう。誰が望んで苦しみを背負いたがるものか。
親鸞も悪人も同じほど仏から遠いところにいる。悪いことをしてもしなくても所詮は仏になり得ない人間なのだ。それは、悪人の方がよくわかっているはずだ。罪を背負う人間ほどその苦しみは深いのかもしれなくて、そういう人ほど救われて欲しい。それは難しいことのように思われる。悪いことをやったら報いを受けなければいけないという考えがやっぱりどこかにあるのだろう。
いや。
「どんな人でも救われる」と親鸞はいう。本当に?
本の中では親鸞がひとりの人間として悩んだり苦しんだりする姿が描かれる。厳しい修行をし、肉体をいじめ抜いて仏に近づこうと努力するけれど、人間である限りどうしても欲望は無くならない。麒麟児だとちやほやされ高僧に弟子入りした親鸞を妬み敵対する人物も現れる。修行の最中に命を狙われる。
親鸞はまた、僧侶として前代未聞の結婚を成し遂げたことで有名だ。出家の身であるお坊さんは肉食妻帯しないことになっていた。奥さんと牛車に乗ってお寺に通うだけで石を投げつけられ酷い扱いを受ける様子が描かれる。えっ、そこまでする!?恋愛結婚が当たり前、どころか(当時の僧侶と違う意味で)生涯独身を貫く人も少なくない現代において、当時の結婚の概念を想像することは難しいが、どうやらお坊さんが結婚することは大変なことだったらしい。
修行を積んだ高僧だからといって特別な人間なのではない。普通の人と同じように結婚し、肉を食べ、自らの未熟さに思い悩むひとりの人間として親鸞は生きた。
年齢を重ねていくにつれ人間が完成していく様を目の当たりにした。3巻目が特にそう。越前に流刑になるがその逆境を親鸞は、仏教が浸透していない人々の間に教えを広めるチャンスと捉えた。なんてポジティブ。冬の寒さ厳しい雪国に旅立っていく。
越後で親鸞は「愚禿親鸞」と名を改めた。その土地の人々と一緒になって田植えを手伝い、その声に耳を傾けた。今私には悩みはないが、もし窮地に陥った時、仏様みたいな友達がいて悩みを聞いてくれるなら、どんなにか心が救われることだろう。そんな友達に親鸞はなってくれる。親鸞の居する草庵にはたくさんの人々が詰めかけ法話に聞き入った。
徳のある人とはかくあるべきか。見知らぬ土地の人々の心を掴み、親鸞に対し長年恨みを燃やし続けてきた昔馴染みの敵を仲間に引き入れ、救いようがないとさえ思われた悪代官をも改心させる。
嘘みたいな話である。胡散臭くないか?
なむあみだぶつと唱えれば、どんな人間でも生まれ変わることができるのか。それとも親鸞が仏そのものの如き人徳を持っていたから、彼に出会う者は悉く生まれ変わったような境地に至るのか。
そうではない。改心し、親鸞の弟子となった元盗賊の天城の四郎も、山伏の弁円も、改心後また「ああ、しまった!」ということをやらかしている。ふとしたきっかけで以前の自分が顔を出し、他人を傷つけてしまったり、怒りを抑えられなかったりする。悪人として生きていくのも、善人になるのも、どちらにせよ簡単なことではなさそうだ。人として生まれたからには、人間としてしか生きられない。
このところ、歳をとることについて考えることが増えた。この間も大学の友達と会って、「もう30になるね」なんて話していたものだけど、若さを失うことをそろそろ受け入れるべき頃合いだろうと考えていた。
歳をとるというのもあながち悪いことではないのかもしれないなと親鸞を読んで思った。
それは、年齢を重ねるほど仏に近づけるという意味ではない。
長年悪行を重ねてきた悪人も、長年修行を積んだ高僧も、同じほど仏から遠くにいる。言い換えれば、悪人も親鸞も同じほど仏から近くにいるということでもある。
生まれ返ったような気持ちで今日を生きてみたい。いくら歳をとってもそれは可能なのだと知ったら、ワクワクしてこない?