ある時から私は、大人しい子どもだった。
小学生くらいのときかな。私はめちゃめちゃ腹を立てていて、粘土で作ったキツネドラゴンを窓に向かって放り投げた記憶がある。粘土はまあまあ重さがあって窓が割れるかと思った。割れなかったけど。
あのとき、何に対して腹を立てていたんだっけ。忘れちゃったな。
そこから先の記憶、思いっきり怒るということがほとんどない。怒るというよりも悲しくなる。
中学高校になっても、私には反抗期なんてなかったのかも。お父さんきらい!って思うことはあったけど、言葉にして投げつけたりはしなかった。親と口げんかする代わりに貝みたいに口を閉ざした。自分の家にいるのに気配を殺して部屋まで階段を上がった。
だいたいにおいて私は大人しい子どもだったのだ。世の中の全てに遠慮しているみたいに生きていた。
大人しい子どもは、大人しい中学生・高校生になった。
いま私は、大人しい大人?
思いっきり怒ることもなければ、心の底から何かを望んだこともない。
ロシア留学から帰ってきた日、自分の机が妹のメイク道具で占領されていることに気づいた時でさえ、腹は立たなかった。
お菓子の最後の一個や、自分の机や、鉛筆消しゴム。そういうものなら人にあげて惜しいとも思わない。自分の人生だって、他に誰か欲しいという人がいたら簡単に譲り渡してしまったかもしれない。
自分のない自分。
そういうのはもうやめようと決めたんだった。
私の中の子どもは一体どこへ影を潜めてしまったんだろう?
思いっきり泣いたり笑ったりしていた、子どもの頃の日々。私にも、わがままがたしかにあったはずなのになぁ。
大人になってからではもう遅い?
ううん、そんなことないはずだ。
今からでも取り戻せるかな、ずっと忘れかけていたわがままな心を。
昨日、こんな言葉を『羊と鋼の森』の中に見つけた。
やっと、わがままになれた。これまでどうしてわがままじゃなかったんだろう。聞き分けがよかった。おとなしかった。いつも弟に押されていた。通したいほどの我がなかった。
今、わがままだ、こどもだ、と指摘されてわかった。僕は、ほとんどのことに対してどうでもいいと思ってきた。
私もやっと、自分のわがままを見つけた気がする。
どれだけわがままになってでもロシアに行きたい気持ち。わがままがあったからこそ、ギリギリの出国を成功させられたのだと思う。
わがままは世界に対して何か影響を与えるかもしれないし、与えないかもしれない。周りがどう思うかや、自分の行動がもたらす結果なんかを気にしてばかりいるから、腹を立てることを忘れちゃうんだ。
大人のふりなんかするのはやめて、私の中の子どもの声に耳を傾けよう。いつかは本当の大人になれるように。
さとりちゃんのお題を考えながら悶々過ごしていたけれど、大人になるとはどういうことか、まだ結論を出さないでいたい。
「本当の大人」になったらどんな風なのか、まだ私はわからない。でもいつかは本当の大人になりたいと思うんだ。
すてきな文をありがとう。
はちまきは自分自身を一番大切に社会で生きてほしい。などと外野からみて思います。