就活生は神のお告げを欲している。

僕は就活生なのだが、不思議なことに数えきれないくらいESの添削を行ってきた。去年の今頃、あまりに暇だったので友人や後輩のESを熱心に添削していたのである。僕の添削の評価はまあまあ良好で、気づいたら友達の友達などまったく面識のない人のESを添削することも少なからずあった。世の中にはラブレターでお湯を沸かした人がいるようだが、同じ様に僕もESでお湯を沸かせたりするのかもしれない。

赤の他人の添削や面接の相談の多くはカフェで行った。顔を合わせて、まずは簡単に会話をし、その後ESや自己PRの詳細をつめていくのである。僕の添削や面接指導がそこそこ評判だった理由は、非常に断定的であり、よく言えば方向性を指示し、悪く言えば、可能性を根こそぎ奪ったからだと思う。これは人がおみくじを引く理由と同じである。人は自分の人生の可能性を(なにものかの)断定によって、規定したいからおみくじをひくのだ。「転居 差支えなし」「争事 最後には勝つ」という文面をみると、僕の場合「人の人生をよくそんな断定できるなあ」と面白くてテンションが上がってしまうのだが、多くの人はそれがありがたかったりする。

つまり、僕のES添削や面接練習は、彼らにとっておみくじのようなものなのだ。なるほど、そう思うと、少なからず需要があるのがうなずける。

さて問題は、どうして僕が、神様でもあるまいに、他人の人生を断定できたのかということだ。そしてその暴力的な断定に、なぜ人は責任感がないと反発をしなかったのかということだ。

おそらくそれは、僕が複雑な事象を単一にラベリングする精度が高く、そしてラベルどうしを結び付けてロジックを見出すのがうまかったからだ。ロジックは再現可能性があり、ほころびがなく、非常に優美だ。少なからず、僕のラベリングによって生まれたロジックはどこからどうみても間違いがないために、僕は自信をもって断定することができたし、当人も「現段階ではまったく誤りのない論理だ」と評価するしかなかったのだろう。

ここまで考えると、非常におもしろいなあと思う。不思議な利害の一致がおこっている。僕は他人を無差別にラベリングする行為に快楽を得ていた。そして、添削を頼んだものは、神からのお告げを受けて安心を得ていたのだ。この関係に、どれくらいの生産性を見出すことができる?断定するのは難しそうだ。

今日も読んでくれてありがとう。いざ自分がESを書こうとすると、まったく手が動かない。僕は僕自身をラベリングしたくないからだ。神のお告げがほしい。皮肉である。

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