人生損してた。文体というものを知らずに生きてきたなんて。
固い文章というのはわかる。言葉が難しくてとっつきにくい。
Hard-boiled egg というのもわかる。しっかり茹でられた卵の方が美味しいよね。
じゃあ、ハードボイルドって?
それを知りたくて『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみたのだった。何年か前のことだ。確かに、独特な文章だったなという記憶がある。延々と主人公がしゃべり続けているような感じだったのを覚えている。
それで、ハードボイルドがわかったのかというと答えはノーだ。読んでいるうちに当初の目的を忘れてしまったと言うべきか。物語の内容の方を真剣に読んでいたせいだ。
昨日は『ノルウェイの森』を一気読みした。勘定してみると3時間で上巻を読み終わってしまったことになる。バイト前に1時間、行き帰りの電車で1時間、夕食後に1時間。センター試験の長文問題でも解くみたいにそんなにも急いで読んだのには理由がある。今日図書館の返却日だったんだ。それでいてちゃんと本の内容は頭に入っているよ。もちろん、1ページも飛ばさなかった。
いったいどんな読み方をしているのだろうと自分でも不思議に思ったので、説明してみようと思う。
文字を目で追うそばから、それは頭の中で像を結ぶ。例えば、井戸がどこかに口を開けている草原の風景や、寮の屋上で蛍が光の線を描く様や、ジェイ・ギャッツビーが対岸に眺めた灯台のようにろうそくの灯りが灯る窓を探し求める場面。
文体に注意を払わなくても、本は読めてしまうものなんだ。一度物語の中に没入すると語られ方は空気同然になる。そこで語られている内容の方に意識は向けられる。読み取られた言葉は輪郭のないイメージに変わり、その後では、一言一句違えず再び元の文章に戻すのは至難の業だ。紙の上では文字が全て。言葉ほど確かなものはないように思えたのに。イメージの世界において言葉は曖昧に薄れていく運命にある。
今も、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と目にすれば、読んだ読んだ、という気持ちになる。鴨の泳ぐ池の情景や学校や寮や先生。それらの断片は、しかし、言葉でより正確に描こうとすると、するりと逃げていく。名前だけ聞いてぼんやりとしか顔を思い出せなくても、会えばその人だとすぐにわかるのに。そういうことあるよね。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も同じで、もう一度読んだらすっかり思い出せると思う。文体も、きっと。
言葉を丸暗記することは不可能に近いけれど、イメージを思い浮かべることは難しくない。そこには言葉にならないものも含められる余地が広がっているはずだ。読んでいる間に生まれた印象は名付けられることなく、記憶の底に沈んでいく。
『ノルウェイの森』を2度目に読んで村上春樹も悪くないなあと思い始めた。やっと私にも里芋の良さがわかるようになったのだろうか。
内容にぐっと胸に迫るものがあった。初めて読んだ時には少しも心を動かされなかったのに。
20歳そこそこの私には(今だってそう大して変わりはないのだけれど)、主人公がずっと大人のように感じられた。自分とは違う種類の人間みたい。ページをめくりながら、ただただ呆気にとられるばかり。どんな感想を持っていいのかわからない。そんな感じだった。
今はちゃんと主人公の心が理解できるような気がする。ああ、哀しいんだね、って。文章が変わったわけではない。記憶の底に沈んでいた最初の印象が、いつのまにか心に馴染む形に変わっていたのだと思う。
それと、文体に気がついたということもあるのかもしれない。『ノルウェイの森』を読んでいたら『グレート・ギャッツビー』を思い出した。雰囲気が似ているのかな。どう似ているのか説明するのが難しいんだけど。誰かに似た話し方をするというだけで、なんだか懐かしい気持ちになるものなんだ。
私が文体を意識するようになったきっかけのひとつが、カフカ。
『訴訟』を読んでから、まだ1ヶ月と経っていないはずだ。銀行員のKがよくわからない裁判にかけられる話なんだけど、読んでいて本当によくわからない。読み進めれば進むほど謎ばかりが膨らんで、読み終わってもまだ、謎。この話にはいったいどんな意味があるのだろうと考えていたけれど、ついにはあきらめた。世の中には、意味がわからないことがいくらでも起こりうる。ある種新しいというか、アバンギャルドというか、新鮮さを感じてしまう。今まで読んだどんな話とも違っていて面白いと、私は感じた。……主観的な感想しか出てこないね。
とにかく、最後のページまで私を引きつけて離さなかったのは、その文体だったのではないかと思う。
声に心地よいリズムやテンポがあるように、文章にも流れがある。違和感がなく自然で、かといって退屈でもなく、そこにしっくりくる言葉。そんな文章は、美しい。
いったいどのようにして名文は生み出されるのだろう。計算尽くして一語一語を配置しているのだろうか。それとも、試行錯誤の結果、偶然いい形に文ができあがるものなのだろうか。
ありとあらゆる文章で世界はいっぱいだ。空気を吸うみたいに私はそれらを読む。その瞬間に言葉は形を崩し自由になる。私は自分が一番自由に感じる言葉で、つかみどころのないものを形にしようと試みる。まだ誰も知らないでいる文章をこの世に吐き出すために。