「シェアハウスのことが、信じられない」
現在の私の住居について説明したら、言われた。
「他人と一緒に生活するなんて私には無理だ」
私は逆に、「自分ひとりで生きていくことは無理だ」と言う。
そうしようと思えば一人暮らしだってできなくはないだろう。たった1ヶ月の間のことだけど、完全な一人暮らしをしていた。
その間に妹や友達が遊びに来てくれた。職場で気の合う話し相手を見つけた。それがあったから私はなんとか生き延びることができたんだ。
他人と関わりながら生きていることと、一緒の家で生活することは、全く別次元の話だったかもしれない。
私がひとりで生きていくことに不安を感じるのは、他人と付き合い始める方法がわからないからだ。一人暮らしを始めた時、誰ともしゃべらない毎日に閉じ込められてしまいそうな気がした。
ハウスメイト。友達。姉妹。家族。職場の人。そういった名前で表される関係性では、安心できない。
同じ職場で働いていること。血の繋がった姉妹であること。友達であること。それらは私と他人を結びつけてくれるかもしれない。でもいったん職場を離れれば、仕事でのつながりは消えてしまう。毎日顔を合わせるわけではない妹や友達に、私は話しかけるきっかけをなかなか見つけられない。
みんな自分の生活で忙しいのだろうなと思う。
じゃあ、生活の一部をシェアしたら、私は相手のことを信じられると思う?
答えは、ノーだ。
父と暮らすのに我慢ならなくなって、私は家を飛び出したのだから。一緒に暮らしてさえいれば誰でも心を許せるというわけでもない。
ここにいてもいいの?
時々、不安になってしまうんだ。
そういう時私はふらふらと外へ出る。あてどもなく散歩に出かける。歩き続ける…。
ひとりの時間も大切だけれど、本当は、誰かにかまってほしくてしかたない。それでいて誰にも気を使わせたくない。
例えば、半分こして食べるごはんだったり、ニュースに対する感想を聞くことであったり、あるいは描きあげたばかりの絵を見せること。どうでもいい話で笑い合えること。そういうのを私は信じたいのだろう。隣にいてもいいんだって。
理想は、お互いを気にかけあっていることだ。同時に気を使いすぎてもいけない。そのバランスは目に見える形ではわからない。だから、目をつぶったまま他人の懐に飛び込んでいくしかないんだ。
初めのうち、私は文字通り崖から飛び降りるような気持ちでいた。今も人の心なんて目に見えないのは同じだけれど、前と比べたら少し慣れてきたんじゃないかって思う。いろんな人が私のことを受け止めてくれたおかげだ。それと同じくらい、いろんな人が私のところに飛び込んできてくれたおかげだ。
「そういえば昨日、会社の休み時間にブログ読んだよ」
それを聞いて、とてもとてもびっくりしたんだ。誰にも読まれていないつもりで書いていたからね。すごく嬉しかった。すっかり忘れていた頃に誕生日プレゼントをもらったみたいに。私の知らないところで、私の文章を読んでくれていたんだなあ…。
一緒に生活するかどうかが大事なんじゃなくて、お互いを大事に思っているかどうかなんだよね。生きる時間をシェアしたい。
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