昨日、バイト先の飲み会に参加した。
異動する前の店舗では絶対に誘われなかった(悲しい)飲み会だけど、今の店舗はみんな天使なのでよく誘われてときどき参加します。ああ、なんていい店舗なんだろう。
昨日はクリスマスらしく大きなタンドリーチキンを食べた。この飲みの場でも仕事中のそれぞれの役割がそのまま目に見えて面白かったなあ。店長は率先してカットするし、副店長はそのチキンをおさえる役目にまわるし。
そういえば、最近ある友人(聴覚障害者)から「転職をしたい」と相談を受けた。彼は就職して3年経つのに、なぜ今になって?と気になって聞き返すと彼は言った。
「飲み会に参加しないでいたら人間関係が悪化した」
今の時代、よく「会社の飲み会ほどしんどいものはない」というじゃないか。人付き合いというのは面倒なものだね、と共感の意思を伝えると、続けて彼は言った。
「違うよ。聞こえるやつらは”部長は面倒くさい話ばっかりだなあ”とげんなりすることができるんだ。僕にはできない」
「面倒くさいとか、面白いとか、そういう感情を持つ以前の問題なんだ。そもそも、話を聞く権利すら与えられていないように感じる」
わたしはタンドリーチキンをカットしている間、黙々とビールを飲んだ。仕事中は勤務歴が長いのもあり、先導する役目にまわることも多いのだが、この場では役立たずだ。
「フォークとって!」「皿!」「おしぼり!」の口の動きを読み取り、動こうとするとすでに誰かが反応している。うわあ、わたし何もしてないじゃん。目の前に置かれたチキンにかぶりつくだけの仕事しないクズな新人。
彼はだらだらと不満を垂れ流すとき、ときどきこんな言葉を挟んだ。
「飲み会なんてなくなればいいのに。プライベートなんて嘘だよ、公私混同はして当たり前じゃないか。」
どうやら、彼は飲み会で黙々と飲み食いする壁の花的な状況に嫌気がさしたようだ。それでも、なぜかみんなは誘ってくれる。なんだか義務のような、「あ、アイツも誘わなきゃなあ」というような誘い方をしてくる。参加したところで、楽しさはまったくないし、集団グループの席に相席して一人で飲んでいるような気持ちになるらしい。
わたしはタンドリーチキンにかぶりつきながら声をあげて笑うみんなの姿を見つめながら思い出した。お経を聞き流しているみんなが羨ましいと思ったことがあると。
お経がびっくりするほどつまらなくて、「早く帰ろう」と母の手を引っ張る時代、たぶんほとんどの人間は経験しているんじゃないかな
こういうとき、母はいつも「わたしにだってわからないわよ。何言ってるかなんてわかるわけないじゃない。それはななこだって一緒だと思う」と諭した。
でも、わたしはいつも反論した。「ちがうよ、お母さんは聞かないという選択をしているんだ。わたしには選択できないんだよ。」
彼は転職先を探し始めて一年経つそうだ。どうやら、「飲み会のない職場」とハローワークに条件を伝えたら難航してしまっているらしい。
「アットホームな職場なんて嫌だ、みんな厳かに黙々と働いて帰宅できる職場ないかな」と彼は言った。聴覚障害は”コミュニケーションの障害”ともいわれていて、なかなか周囲と言葉を交わすことが難しいのだ。彼はコミュニケーションの壁に失望し、疲弊しているんだとわたしは思った。
タンドリーチキンと一緒にたっぷりと思考をめぐらせたあと、わたしは立ち上がって飲み放題メニューを手に持った。
「みなさん飲み物おかわりどうですか?」
みんなが一斉にこちらを向く。「あ、わたしカシオレ」「ウーロン茶!」「生!」あちこちから一斉にでてくる注文をとっては、店員にまとめて書いた紙を渡した。席につくと、隣の席の子がわたしに話を振った。それから、わたしも含めた数人で話が盛り上がっては涙が出るほど笑った。
彼にはうまいこと何も言えずに相槌を打つことしかできなかったけれど、コミュニケーションの壁をつくっているのは私たちなんじゃないかな。多数派が多数派の言語を喋るのは当たり前なことじゃないか。君がアメリカにいったら、英語をしゃべるだろう。それと同じことなのだ。
わたしたちにわからなくても、わたしたちのことをいちいち全て気遣うほど、みんなは暇じゃない。もしそうしてくれる人がいるのなら、その人はよっぽど愛に飢えているか、君に好意がある。
でも自分たちから動けば、わりとみんなは気づくものだよ。それがたとえ「同情」からくるものだとしても、ゆくゆくは仲良くなってしまえばいい。組織というものは、人と人が影響を与え合いながら動いていく仕組みになっていると思う。そんな中でコミュニケーションを恐れて、やたらと疲れる人生なんてまっぴらだ。
どうせなら自分を見てくれる人、ほしくない?そのためには自分が人を見る必要があるんじゃないかなあ。わたしはそう思う。
どう?これがわたしの答えだよ。
わかる