自転車が大好きなんですか?

毎日乗る自転車には愛着が湧く。

一昔前の自分なら、自転車を家の中で保管しなくてはいけないと言われたら、笑い飛ばして本気にしなかったかもしれない。実際、乗り始めて1週間くらいはマンション外の自転車置き場にママチャリと一緒に並べていた。
盗まれるのが心配だったら初めからそんな高価なものを買わなければいい。屋外に出しておくと劣化する?外を走る自転車がそんなひ弱でいいのか、と。
もともと私のものでもなかった。何年も押入れの中に仕舞い込まれたまま無駄なスペースを消費しているクロスバイクが、私は気にいらなかった。使わないものを持っていても仕方ない。捨ててしまった方がいいと思う。諫言したが夫はクロスバイクを処分しようとしない。それなら私が乗ってやると、眠っていた自転車を押入れから引っ張り出した。

本当に素敵な出会いは、気づかないだけで押入れの中に眠っているかもしれない。人生って不思議だよね。様々な選択をし、自己決定して生きているようで、実際何に出会うかは自分でもわからない。出会わされて初めて、「ああ、私はあなたに出会いたかったんだ」とわかるんだ。
自転車は生き物のように感情があるわけではないとわかっているが、ずっと押入れに押し込まれているよりも外を走っている方が幸せだろうなと思う。だって、走るために生まれてきたのだから。そうでしょう?
人間ではない別の生き物になりたいという願いを自転車は叶えてくれる。ペダルを回す自分の足が自転車の一部となる感覚がある。筋肉はバネに、関節は歯車に。その瞬間、自転車が生き生きし始める。カーボンかアルミかわからないが、体温のない車体に私の命が流れ込む。水を得た魚のようにすいすい泳ぎ出す。
こんなにも夢中になるなんて思いもしなかった。今は、ああこれは大事にしてあげなくてはいけない自転車なんだなとわかる。むしろ大事にしてあげたいんだ。

自転車を担いでマンションの階段を登ったり降りたりすることは全く苦でない。ママチャリと比べてずっと軽い。お姫様を抱き上げて運んでいるような気分になる。
雨に濡れたら拭いてあげる。散歩から帰ったら犬の足を拭くじゃん。あれと一緒よ。面倒だ億劫だと思うよりも、その面倒を見れることがもはや喜びなんだよね。
自分の体はずぶ濡れでも、何よりまずは自転車を綺麗にしてあげたい。人の体は錆びないが、自転車の部品は錆びるからだ。泥はねを雑巾でざっと落とす。前輪、後輪どちらもタイヤの後ろは巻き上げられた泥で汚れる。草の葉が挟まっていることもある。それからタイヤとホイールの境目をぐるっと取り巻く輪っかの部分、リムも汚れやすい。ここを綺麗にしておかないとブレーキが音鳴りする。それからチェーンオイル。初めの頃、しばらく油を刺さない状態で走っていて変速するたびにガチン、ガチンと引っ掛かる状態だった。油をさすようになってからそれはなくなった。
自転車を見ながら絵を描いても、何がどう動いて走っているのかなんてさっぱりわからなかったが、実際に触るようになって少しずつ覚えてきた。スプロケットの下側にくっついている小さな歯車がプーリー。チェーンのテンションを保つ働きをしている。プーリーに触るのは、チェーンが落ちた時。チェーンオイルを行き渡らせるためペダルを手で持って回しながら油をさしていたら、フロントギアからチェーンが外れた。どうしよう?変な汗が出てくる。夫を呼んでも役に立たないことはわかりきっているので自分でなんとかするしかない。気を落ち着け、スマホで直し方を調べる。プーリーを掴んで緩めながらフロントギアにチェーンを戻していくとある。見よう見まねでもともとかかっていたアウターギアになんとか戻すことに成功したが、手が真っ黒になった。
雑巾で拭くだけでは綺麗にならない汚れもある。スプロケットというギアの刃が重なっているところや、チェーンといった部品は、素人にはなかなか手を出しづらく感じていた。思い切ってパーツクリーナーを購入した。スプレータイプのクリーナーをシューっと吹きかけると、おおすごい。みるみるうちに黒い汚れが落ちていく。黒ずんだネズミ色をしていた表面が本来のシルバーの輝きを取り戻す。以来、雨の日が待ち遠しくなった。雨の後が洗車をするタイミング。

もしかしたら私は、愛情を注ぐ対象が欲しかっただけで、それは自転車でなくてもよかった。子供が生まれたり、ペットを飼ったりしたら、そっちに夢中になって別な幸せを手に入れていたかもしれない。
もちろん、自転車は放っておいても死にはしないが、赤ちゃんや犬猫はそうはいかない。生きているものと生きていないものとのコミュニケーションは全く別物だろうとも思う。でも今、自転車と他の何かを交換するなんて考えられない。たとえ一千万する新車をもらったとしても、自転車で通勤することをやめないだろう。私にとってはもう自転車はなくてはならない存在だ。

今日は仕事は休みだが、出かけたいから出かけるのだ。洗車してピカピカになった自転車を走らせる。
いつもの川沿いの道は草刈り中だった。丈の高い草が綺麗に刈られて走りやすくなることはありがたいが、刈られた草がばらばら落ちているところを通ると私の肌はかぶれてしまう。手の甲や足首にぶつぶつができて1週間くらいかゆみが取れず酷い目にあった。迂回して一本向こうの車道を走ることにする。すぐ脇をトラックが走り抜けるたびに、自転車の上で身を縮こませる。自転車に追い回される小鳥になったような心地。すまないと思うが、なぜか小鳥は自転車の走る方に逃げるから結局追いかけるような形になってしまうんだ。
いつもよりもっと先まで行ってみた。そこまでは草刈りの手も届いていないと見える。道の両脇には切れ味のいい刃のような草の葉が風にそよいでいる。虫が多い。トンボ天国だ。光の中でキラキラと透明な羽が輝く。イタチがちょろりと姿を現し、再び草の中に姿を消す。でかいネズミも見た。ヌートリアじゃないか。初めて見るその大きさにびびった。
1時間走ったところでUターンした。それ以上走るには暑すぎる。もう少し涼しくなったらもっと先へ、向こうに見える山まで行ってみたい。
行きは漕いでも漕いでもスピードが出ず苦しかったが、帰りは嘘のように追い風に運ばれて楽に帰ることができた。風の力は大きい。自転車に乗っているとひしひしと感じる。
雨の日も風の日も、暑い時も寒い時も、草でかぶれてかゆい時も、この自転車と一緒ならどんな経験も味わい深い。

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