村上春樹の風の歌を聴け

 

久しぶりに小説を読んだ。村上春樹の「風の歌を聴け」を本棚から取り出して夕食後にさっと読んでみたのだ。僕の大学生活はおよそアカデミックから遠いところにあった。早々と数学や物理を「自分のための学問ではない」と見切りをつけて、多くの時間を読書や映画鑑賞、音楽鑑賞などにあてた。毎週金曜日にかならず家を訪れて、夕食を食べていた宮川君は当時の僕をこのように書いていた。「情報系の学部に属しているが、ネットサーフィンしかできない。カルチャー感のある何かが好き」彼はまったく嘘をつかないめんどくさがり屋だった。この文章はとても彼らしいと思う。嘘をつかないけれど、真実を語るほどやる気はないのだ。とてもよくわかる。

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そんなカルチャー感ある何かを求めて生活を送っていたのにも関わらず、この一年間さっぱりとそれらから距離を置いていた。本を読みはするが参考書程度のものだし、当時月に10本は観ていた映画もさっぱり見なくなった。本屋から遠ざかっているので、当時毎月購読していた10種の雑誌もとんと読んでいない。キネマ旬報を最後によんだのを思い出すことができない。音楽は自分に害がない程度には訊く、勉強をする際に空いた耳が寂しくて、害のない音楽を聴く。

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以前はmixcloudに投稿されたアンビエントミュージックを頭からかけ続けていたが、ある時を境にChilly gonzallesのsolo pianoをリピートしてかけ続けるようになった。ストリーミング配信のいいところは訊くたびに劣化することがないことだ。もし僕が毎日LP版のsolo pianoをターンテーブルで再生し続けたら、どんなに丁寧に扱おうと、いつかは文字通り擦り切れてしまうだろう。そんなわけで、僕はChilly gonzalesを半年間狂ったように聞いていた。solo pianoシリーズの中でも、特に初作が優れている点は、鍵盤と爪がぶつかる音がそのまま録音されていることだ。いつしか僕はsolo pianoのOreganoを聴くと、単音の連譜よりも人差し指の爪が鍵盤にあたる音が心地よくなった。
しかし、勉強にもなれてきたのかかもしれない、耳からも情報を仕入れたいと感じるようになり、最近はもっぱら、オーディオブックを控えめな音量で流している。こうして僕は音楽も日常的に聞くことはなくなった。

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テレビもほとんど見なくなった。当時は平均して毎日3時間くらいは観ていた。ニュース番組を観ないのは当時から変わらないが(僕はテレビのニュース番組が本当に苦手だった。あんなもの誰が喜んでみるんだろうと疑問に思っていたし、日曜日の昼間にテレビをつけると地獄みたいな気持ちになった)次第にバラエティ番組を観なくなったし、最後はあれだけ楽しみにしていた「プロフェッショナル仕事の流儀」すら見なくなってしまった。僕の本棚のいちばん下の段には10冊のノートが積みかさねておいてある。自分がみた番組の出演者や担当者、番組の構成や、製作者の意図や、それから感じ取られる意義のようなものを書きだしたノートだ。毎日ノートを机に開いてテレビにかじりついていた。バラエティで腹を抱えて笑った後に、なぜおもしろかったのかを真剣に考えてノートに書き出していたのだ。ノートはあるときを境にすっかり更新されなくなった。

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そのとき培ったスキルは日常生活で少なからず活きているかもしれない。僕はなにを話すにしても、書くにしても構造としての美しさを意識するようになった。そしてそれを他人にも強く求めている。他人の話を聞きながら、どこかでより正しい構成や、有益な情報を求めている。僕はそのどれにも引っかからなかった話や文章に対して、平気で「へー」とか「ふーん」と返してしまう。世の中には寛容な人間が少ないし、それに加えて、人は自分に与えられた不当さを許すことができない。という特性を持ち合わせているので、僕のことを「つまらない人間だ」と評価するひとがいる。2人でコーヒーを飲んで駅でお別れをしたと同時に連絡が途絶えてしまったことがある。たまに、頭のおかしい人たちがやってきて、「君ほど面白い人はいない」ということもある。なんとなくいいバランスで関係を築いているのかもしれない。

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今日も読んでくれてありがとう。「風の歌を聴けを哀しくなった時に読むんだ」と僕にいった友人がいます。彼との話を一万字くらいでかきたいなと思って書き始めたら序文でいっぱいになりそうだったので改めて書くことにしました。これはこれで投げます。

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