スタバ日記の弁解をします

この前、はちまきとご飯に行ったときにこんな話をした。

「結局は直感で嫌だなあと思っても、それを他人に共感してもらうためには理由を作らなきゃいけないんだ」

 

案外世の中は直感が先行しているのかもしれない、とわたしは思う。

例えば、わたしは8月に実家に帰った理由を「7年間も家を出てたから社会人になるまでには帰りたかったから」と答えたけれど、実際は直感で「あ、帰りたい」って思ったからだったりする。そんなことは世の中にたくさん溢れている。

さっきのスタバ日記を書いていたときも、常連に対する胸の内を綴っているとどうもどこかで聞いたことがある、読んだことがある、文章になってしまうのだ。心のうちにあるオリジナリティに富んだ感情たちや思い出はすべて日本語という言葉によって無機質に変えられてしまう。

表現したい感情が複雑すぎて、どんな言葉を当てはめてもはみ出してしまうのだ。

なんども書き直して納得いかなくて結局あれで更新してしまった。ま、ここで弁解させてもらえればいいやと。

 

これが「会話は誤解の連続」という言葉につながるんだよ、はちまきちゃん。

言葉が明確に示せる本質はほんの一部だけで、複雑にどこかへつながった部分までは言葉の力じゃ引き出せないなあと思うのです。ダーリンを書いていると、たまーにそういうことに悩んで文章を消してしまう。

ま、そんなこともあるさ。ちょっとこのテーマはわたしの語彙力じゃ、書ききれないなあってね。

ちなみに例の言葉を教えてくれたのはわたしの哲学仲間なのです。彼はわたしより何倍も語彙があって、たまに言ってることがわからなくなる。突然「暇と退屈の違いってなんだと思う?」って聞いてくるようなやつだ。彼のことをわたしは心からすごいなあと思うし、敵わないと思う。でもそんな彼はわたしのことを「語彙力がある」と褒める。「少ない語彙で複雑なことを説明するのが上手」だってさ。ちょっと嬉しい。

 

脱線しちゃったけど、スタバ日記の弁解でした。ありがとうおつかれさま

“スタバ日記の弁解をします” への3件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。