ボクサーは素人を殴らない。

こんにちは、よしだじゅんやです。

 

「いいなあ」が人よりも多い人間だ。僕はよく映画を観たり、面白い話をきくと、よく「いいなあ」と漏らす。そのたびに、もっと正しい言葉をつかって、そこに存在する「良い」の輪郭を正しく言葉で表現しなければという衝動にかられる。けれど、それは思ったよりも難しい。どのような言葉をあてはめても、なんだか嘘をついているような気がする。その「いいなあ」の衝動と、表現欲と、自己嫌悪は僕にとっての宿命だ。

 

つねづね思うのだが、この世の諸悪は、いいなあを表現する難しさに比べて、それを貶めたり非難することの容易さによって生じている気がする。「これはだめだ」ときめつけたり、相手を傷つけることはとても簡単だ。僕はそれを暴力と呼んでいる。自分はまったくコスト支払わずに、簡単に人を傷つけてしまえる手を持って生きていると思うとぞっとする。僕にとって、その手を最後まで使わないというというのも、重要なテーマのひとつである。

 

僕はずいぶん落ち込んでいる。はやい話、僕はひとりの女の子を傷つけたのだ。出すまいと決めた手を、自分の保身やプライドのために使ってしまった。相手をよく知るからこそできる、相手の傷つけ方がある。僕は特にメンヘラの心情について理解があるほうなので、どこをどのように刺激すると、効率よく傷つくかをよく知っている。けれどそれを使ってはいけないのは自明だろう。プロのボクサーは素人を殴ることを固く禁じられている。ボクサーは人を殴るために鍛えているわけではないからだ。リングの中で技術をもった人間としのぎを削るために彼らは厳しい訓練を積むのだ。僕がメンヘラという存在に魅かれて、だれよりも理化しようと努めるのは、きっと彼等を肯定するためなのだ。

 

「心苦しいけれど、君が生きやすいのなら、僕は君にサービスすることに徹しよう」

「自分の心の平穏のために、あらゆる人間関係を平らにしたいのはよくわかる。君のためなら、僕はそこらへんにある平らな石ころとして接せられても構わない」

 

なんと卑怯な言葉だろうか。本当に、本当に、相手を陥れるのは簡単なことなのだ。よしと思い立つ前にすでに身体が動いてしまっている。自然と口から言葉が発せられる。そして、僕が努力して形作った「いいなあ」の形状を簡単に崩してしまう。あっけないとすら感じる。今から修繕することは難しい。すでに終わってしまったことなのだから。

 

当分の間、僕の自己嫌悪は終わらないだろう。僕は本当に愚かで醜い人間だ。それでもなんとか、僕は生きていたい。

 

今日も読んでくれてありがとう。最近暑いねえ。

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