ピアノを弾く②

前に書いた記事の続きというわけではないんだけど、弾いていたら書きたくなったから。

ピアノが置かれた小部屋で何度も聞いた音楽がずっと耳の中に残っている。
ドラえもんやのだめカンタービレの漫画を読みながら、私の前にレッスンを受けていた友達が弾くのをいつも聞いていた。
夕方学校が終わった後にいつも2人でピアノの先生の家を訪ねた。庭から階段を登っていくと、晴れた初夏の日には橘の花の香りがした。雨の日には洗濯物の柔軟剤の香りがした。
繰り返される音楽は迷宮のようにぐるぐると同じところを回っているように思えて、決して引き返すことなく先へ進んでいた。

「やめちゃうの、もったいないな」
出会って間もない高校の担任の先生にまでそう言われたのを私は覚えている。4月最初の面談で習い事について聞かれたとき、私はピアノをやめるつもりだと話した。
それほど上手でもないし、才能があるわけでもない。なにか目的があって習っているわけはなかった。なんとなく続けてきたのをここいらで終わりにするべきじゃないかと思ったからやめたに過ぎない。

始めたきっかけは友達に誘われたこと。「似合わない」と最初思った。ピアノを弾くのは女の子みたい。自分らしくない。でも、嫌いではなかった。

私をピアノに誘った友達はピアノの他にスイミングにも通っていた。マラソン大会では1位か2位。運動会ではリレーの選手。勉強もできるし絵も上手だった。私は彼女に骨の髄まで心酔していた。
私には「才能がない」「似合わない」。頭では分かっていたつもりなのに、少しでもあの子に近づきたかった。

当時私の座右の銘だったのは、「能ある鷹は爪を隠す」。
ピアノの先生の前では、思いっきり全力でピアノを弾いたことなんてない。間違えるたびに心の中で言い訳した。一人の時ならもっと上手く弾ける、と。
表向きはやる気のない素振りでいながらピアノの練習は真面目にやった。

友達は音楽が好きだったけれど、私はそうでもなかった。何が良いのかさっぱりわからない。私には聞こえない何かを、聞こえる人は音楽の中に聞き取っているのではないか。私はそれを自分の耳のせいにした。音楽に心を閉ざした。

「どの曲にする?」
ある時先生はいくつかの曲を弾いて聞かせてくれた。それはまだ私が小学生で、あまり劣等感に汚染されていなかった頃のことだったと思う。
そのうちの1つを聞いていて、不思議な気持ちだった。寂しくて綺麗な音楽を聞くと、こんな気持ちになるんだ。
弾き終わった時、先生はハンカチをさしだした。あれ、私は泣いてるのか。
「この曲にする」私は選んだ。

本当は音楽を好きだったはずだ。でもわからないふりをしたんだ。才能あふれる友達を前に、自分に自信を持てなかったから。

私が高校生になって最初で最後のピアノのレッスンだった。ソナチネを弾いた私に先生は言った。
「お客さんに聞かせてもいいくらい、上手になったね」

それ以降全く弾かなくなったわけではない。誰に聞かせるわけでもなく、時々気まぐれを起こしてはピアノの前に座った。
いつも決まって弾くのは、フリードリヒ・クーラウのソナチネop.20。橘や雨の日の匂いや、ドラえもんやのだめがぐるぐる渦巻く。それ以外を私は知らなかった。
何度も聞いた同じ曲のはずなのに、自分で弾くと違って聞こえる。何かが足りない。速さ?技巧?

近所に住んでいるのにもうずっと会っていない友達のことを私は時々思い出す。ひょっとしたら今はもうピアノを弾かなくなっているかもしれない。でも私はいくつになっても、あの子に追いつけない気がする……。

高校、大学、ロシアと、年を経て、私は自分に自信を持てるようになった、と思った。本当のところはわからない。
ピアノはあまり変わらない。

私の全力のソナチネ

これが私の実力だ。
思ったより上手いわけでも、下手なわけでもない。そういうもんだよなって感じ。ところどころ間違えちゃうし、素人感まるだしだけど、それを私は好きになれそうな気がする。

もうできないふりなどしなくていい。他人に追いつこうとする必要なんてない。
誰とも全く同じようには弾けない、自分の弾き方しかできないのだとわかったから。

そろそろなにか新しい曲を弾いてみようかな。ロックフェラーの天使の羽、その次は、なにがいい?

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