自分を認知する

私には”メタ認知”が欠けてるんだってさ。

 

「今日は疲れてるなあ〜、早く寝よう」

と言える人が昔から不思議でたまらなかった。なぜ自分が疲れていることに気付けるのだ?

私は全く気づかない。睡眠時間が伸びたり、アトピーの炎症がひどくなったりして初めて気づくからだ。

しかも、それを「疲れている」という事実に紐づけられるようになったのはつい最近。

「あんたって疲れたら肌荒れするよね」「起きないときはたいてい前の日にたくさん頭使ってんだよ」と言われてきたのが積み重なって、初めて「自分の身に起こった現象」をイコール「疲れ」と紐づけられるようになっているだけだ。

 

例えば私は事務的なことがとても苦手だ。たくさんミスをするから。

特に誤字脱字なんて、とてもひどい。
しかも、それに気づくのはメール送信したあとだったりコピーをとったあとだったりする。

これはなぜ起こるのか?
答えはシンプルだ。「私は誤字脱字をしやすい」ということをつい最近まで認知していなかったからだ。

お説教のとき「あなたは誤字脱字がひどい」と言われて、初めて「ああ、私は誤字脱字が多いんだ」と認知することができる。

しかし、私はその気づきから改善につなげる方法を考えるのも苦手だ。
「じゃあ丁寧に誤字脱字の確認してから作業にうつればいいのだな」と自己解決してたいてい失敗する。

「自分は誤字脱字に対して疎い生き物なのだ、それはどうしようもない」と言う認知ができるまでにさらにもっと時間がかかるのだ。
ここまで到達して、初めて人に「誤字脱字の確認をしてくれ」と頼むことができるようになっていく。

私のメタ認知の欠如はこういうものだ。

 

だから自分の疲れに気づかないし、自分の気持ちを知ることが苦手だ。

これが今までは逆に働いていて、

「疲れが見えない」(疲れに気づいていない)
「相手の話を素直に聞ける」(自分の考えと比較しない)
「超ポジティブ」(自分の短所を知らない)

というふうにいい面に出てくることも多かった。

しかし、大人の付き合いを求められるようになり、実は「」の長所は()の短所の裏返しだったのだと認知した。

これらは全て、メタ認知の欠陥から起こっている事象なのだ。

 

私は幼い頃から、対等に話すことができる相手に恵まれない人生だった。

中学校を卒業するまでは同級生がおらず、ずっとひとりだった。
国語の授業で「討論大会をしましょう」という課題がでてくるたび、ひとりで討論をした。
賛成の言い分を自分で考え、それを書き出す。それを見て、反対の言い分を書き出す。
自分の頭の中でシナリオを描き、誰にも邪魔されずにエンディングを迎えることができてしまっていたのだ。

高校生になり、初めて同級生ができた。
しかし、どう人と関わればいいのかわからないまま卒業を迎えてしまった。
高校2年生のとき、現代文の先生が私に向かって「あなたは真面目ぶっている」とぶちぎれたことがあった。
私はまっすぐ生きてきたつもりだった。

しかし、第二者の目から見ると「真面目そうに見せかけている」「裏切りそうな人」というふうに捉えられる言動を私は無意識のうちにとっていたのだと思う。
それが何か?はもう思い出せない。認知していなかったから。

それと高校を卒業する間際、ひとりの同級生に「あんたがわからない」と泣かれたことがある。
高校1年生のとき、彼女と一緒にA大学の説明会を受けてネガティブな感想を私が述べたことがあった。
そして年月が流れ、彼女はA大学に進むことになった。
このとき、私は「いいじゃん」とポジティブな感想を述べた。

この出来事を、彼女は「八方美人」と捉えたのだ。
しかし、私の言い分からしてみればそれは違った。
「仕方ないじゃないか、友達のいく大学を悪くは言えない」というのが本音だからだ。

このときの私の落ち度は、彼女が私に「A大学に決めたんだ」とカミングアウトした時の心境を認知できなかったこと。そして、「いいじゃん」と自分の以前の言動を認知せずに軽率に発言したこと。

そして、これらを認知しなかったこと。私がひたすらに悪いわけだ。

 

大学時代では、人と深く関わることが怖くなってしまった。

大学1年生のとき、人生で初めて大きな恋愛感情を抱え、失恋した。
一番の飲み友達が自殺した。
同じ学部の唯一の友達が駆け落ちして、ぼっち。

いろんなことが身近で起こり、私は疲弊したんだと思う。
それから真面目に過ごすのを諦め、道を外れて名古屋のプリンセス大通りで名前も知らない人たちと朝まで飲んで遊ぶ毎日を過ごした。
きっと、自分の今の立場を認知するのが怖くてできなかったんだと思う。

そして今。
ようやく今までの私の人生を認知し始めている。
これは信頼できる人が身近にいること、そして今の私が今までに起こった悪いことたちを受け入れ始めたこと。
様々な事象が重なって、やっとメタ認知というものに手が伸びたんだと思う。

まだまだ自分が「疲れた」ことにすぐ気づけないけど。肌荒れしたりしないとわからないけど。
少しずつ「自分は今どんな状態か?」を考える癖をつけたり、信頼できる相手に「私のこと」を教えてもらったり。
少しずつ少しずつ自分の中を掘り下げていく作業をしていきたいと思う。

これが私の今年の抱負、「為」の体現になるかな。
「人のために」「自分のために」「相手のことも自分のことも忘れない」

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