筆を置く

書いていた小説が完成するというのは、一体どのようにしてわかるのだろう。完成と未完成を分けるポイントは?
始まりがあれば終わりもあるはずだ。

私はよしださんのように、さらさらっと一筆書きで文章を書くことはできない。
一筆書きっていうのは例えだよ。文字全部がつながっているわけではないし、もっと言えば筆なんか使ってない。現代人らしくパソコンに文字を打つ。
つまり、文章の初めから終わりまで、一切の書き直しや後戻りをしないで書ききること。

もし私がGoogleドライブの文書に文章を書いているところを、別の画面でじっと眺めている人がいたとしたら、おそらくひどくまどろっこしいような気持ちになるに違いない。
書いては消し、文章を入れ替える。ひたすらその繰り返し。のみならず、一度は書き終えた部分に戻ってきて、そこから終着点をそっくり書き換えてしまうことだってある。
そうするうちにやっと、自分の言いたいことがまとまってくる。私はそういうタイプなのだ。

それにしても、細かいところにかかずらいすぎる。見ている人には「そんなのどうでもいいじゃん」と思われてしまうかもしれない。
例えば、1ページ目でりすが逃げ出す場面がある。

茶色の尻尾を旗のようになびかせ、ぱっと踵を返す。

「踵を返す」じゃなくて「身を翻す」の方が良い気がする、やっぱり。

やすりをかける作業なんだと思う。木工作品の形が出来上がっても、小さな凸凹が見つかれば滑らかにする。文中の一言一句、句点や改行の一つ一つ。自分の納得がいくまで、何度でも。

どこかに「完璧」が存在するはずだと思っていたけれど、そのうちに、そんなのどこにもないんじゃないかという思いに至った。
もう何度読み返したかわからない。その都度、小説の姿は僅かずつ変化した。ようやく、「これでいい」と思えるほどになった。
また読み返せば、直し足りない部分を見つけてしまうだろう。それでもだいたいにおいては、これ以上変える必要はない。ざらざらを残している場合は、それもたぶん、何かの意味がある。今の私が「これでいい」と言うんだから、このままにしておこう。
一種の妥協のような思いで、筆を置く。

実は以前、昨年末に完成を宣言している。その後再び読み直して、これじゃあやっぱりいけないと、今回の改稿は始まった。
大筋は変わっていない。不要な部分をカットして、ひたすらやすりをかけ続けた。

ロシアの友達には、どうして直す必要があるんだと言われた。
「きみが最初に書いたのなら、それはきっと大切なものだと思うよ」
その友達、改稿前のは読んでくれなかったんだけどね笑
事情を知らないはずの誰かが、何気なく言った一言に、思いがけなく救われるような気持ちになる。そんなことってない?

やすりに削られてしまった部分のことを私は想う。なかったことにされてしまったセリフや、あるいは登場人物のことを
小説を書くのって、めちゃめちゃ難しいなあ。

“筆を置く” への2件の返信

  1. お疲れ様。まずはこの文章とても良いね。削られた文章ははたしてどこにいき、どんな意味があったのかという考えは、自分だけが味わえる贅沢な時間だよねえ。
    ということで完成した小説送りつけてください。読みます。

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