これは文章を書く恩恵だろう。

ビジネスマナー講座で、メールと議事録の書き方を教わる際、こう講師に説明される

結論ファースト、そして根拠を列挙すること。僕はこの数か月間、数か月というのは論文を書き終えた2月の頭から現在の4月中旬まで。そのような世界で、そのような社会で、そのような思想のもと生活してきたようだ。その事実に今更ながら気づいたという話を今日はしてみよう。結論ファーストだ、偉いだろう。

僕はこの二か月間文章という文章を書かなかった、本もほとんど読まないし、映画も見なかった。その間何をしていたかというと、ダーリンとは別の遊び場所を作ることに精一杯の力を振り絞って取り組んでいた。そして4月に入る直前にある程度の形に仕上げることができた。それが終わったかと思うと、すぐに社会人生活が始まる。そこではさっき書いたようなビジネス講座を延々と教え込まれる。新しい遊び場を作るときは、僕はゴールを設定して、それに向かってなるたけ最短で歩もうと戦略を立てた。そして仮説検証を繰り返して適宜目標を再設定しつつ、進むべき方向は間違えないように慎重に、しかし大胆に歩いたのだ。社会人になってもやっていることは同じだ、まずは結論を述べ、それに対しての根拠を列挙する。これを行う理由を講師の方はこう語っていた。

読む人の理解の速度を上げるため、そしてより効率的に業務を遂行するため。

つまり、僕がこの2か月間行ってきたことは、結論ファーストの生き方だった。歩むべき方向を決めたら、わき目をふらずに真っすぐに歩き続ける。効率的ではない行動はここでは厳禁だ。そのようにして、僕はなんとかうまく生活をしている。

 

 

そして、僕がいかに盲目であったかに気がつく。いかに様々な可能性を根こそぎ奪ってしまっていたか。前をむいて歩き続けることがはたして完ぺきな正解だったのか。実はあたりを見渡してみるのも良いのではないか。そこに立ち止まってみるのもいい、座り込んで草木を眺めてみるのも良い。そういう選択肢を僕ははなからないものとしていたような気がする。

 

この一週間、実はというと何度か文章を書こうとしたのだ。よし、書いてみよう。とりあえず2000字くらいで、書いているうちに文章のリズムを取り戻すだろうと高をくくっていた。しかし一向に僕の文章を走りはじめない。歩きはじめない、踊らない、跳ねない、おどけない。そのいかにも凡庸で無機質な文章に僕はいやになって途中でやめてしまったのだ。僕は足を止めてしまったのだ。ドルフィンホテルにいる羊男はろうそくの炎を吹き消してしまったのかもしれない。つまり、もう後戻りができない場所に来てしまったのであないかと僕は考えたのだ。

 

今日、ようやくわかったことがある。止まってしまったものは、文章を書く筆ではなく、僕の思考そのものだということだ。リズムを取り戻すために文章を書き始めるのではなく、僕はリズムを取り戻すために、日々思考を繰り返さなければならない。文章というのは思考をかみ砕く手段でしかない、そう気がついた。それこそが「生きるために、書く」であったはずだ。自分で書いておいて僕はそのことについてよく忘れてしまうのである。僕が愚かなのか、あるいは人間の特性なのか、おそらくその両方だろうね。

 

僕たちは、歴史的文豪をみるとき、彼らの溢れんばかりの才能が彼らの筆を走らせ、マスターピースを生み出したのだと考えがちだ。その才能というのは文才、つまり文章を書く才能だと考えるきらいがる。もちろん、油水のようにこんこんと才能があふれ出す作家は存在する。シェークスピアやドストエフスキー等がそれにあたるだろう。しかし、彼らをのぞいた作家、ならびに作家でもないぼくたちは凡庸な市民である。才能というものにたよることはできない。技術をつけて、思考の井戸を掘るしか優れた文章を生み出すすべはない。

 

そのことは、「〆切本」という書籍をよめばよくわかる。その本は、〆切間近の作家たちが必死のおもいで、編集者に〆切に間に合わないことを報告、言い訳をするという内容だ。僕の尊敬する夏目礎石や太宰治、あの村上春樹まで、編集者にたいしてずいぶん情けない口調で、ごめん間に合わないっす、、、と文章を綴っている。その姿からわかることは2つある。一つは、彼らは天才ではないということだ。彼らは筆を握れば文章をかけるわけではない、僕らと同じように凡庸なのだ。あの村上春樹だってね。二つ目に、彼らは書けないながらも考えることをやめなかったということだ。彼らは苦しいながらも日常の殆どの時間を思考についやし、考えを巡らせていたのだ。

 

つまるところ、優れた文章をかけるかどうかは、日常的に思考をし、考え抜いたか否かで決まるのだ。これはどうも間違いはないと思う。彼らはみな文筆家の前に一人の思想家だった。ゴールを設定する?そんなものは嘘だ、はたしてそのゴールは正しいのだろうか。ゴールを決めたら前にまっすぐ進む?それも嘘だ、あるいは後ろを振り返ることが有効かもしれない。重要なのは、日々思考をすること、そして止めないこと。加えて、この世に面白くないものは存在しない事実を理解することだろう。

 

今日も読んでくれてありがとう。まだ脚はふらついている。けれどしっかりと歩きはじめている。ダンスを止めるな、という教訓は、思い出したときに忘れていたことに気がつく。なんと僕は、あるいは人間は、愚かな生き物なのだと思う。しかしながら、文章はダーリンという場に残る。忘却とともに思考が退化しても、僕は文章によって思い出すことができる。これは文章をかく恩恵だろう。

“これは文章を書く恩恵だろう。” への1件の返信

  1. 結論ファーストの生き方って怖いですね、、、
    文章の恩恵の対極に、結論ファーストの弊害というものが位置付けられるんじゃないかという気がします。

    〆切本が気になります!

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