have going to ってどういう意味?

「手話を勉強してどれくらいになりますか?」
ど、れ、く、ら、い。
目の前の相手の、たどたどしい指文字を私は読み取る。ぎこちない感じが、不思議に心地よい。話していると時間がゆっくりになるような気がする。

「3年くらい前です」
声をつけて私は答える。

声なしで話しかけられたら声なしで答える。対応手話で話されれば、対応手話で。声のわかる相手なら声で。
カメレオンのようにうまく立ち回ってる。どこにいても本物になれない私。

ななこの手話がなつかしい。

時々、どうやって表したらいいのかわからない日本語がある。
こんな時ななこだったら、どんな風に表現するのだろう。てきぱきとした手のリズムを私は思い浮かべてみる。ななこの手話をそばで見ていたのはずいぶん前だ。でも忘れようもない、あの話し方。堂々としてて、キレがあって、最初から最後まで全てが完璧だった。
そういう風に私の目には映った。

私の手話は、いろんな話し方の寄せ集めだ。インプットされた表現からアウトプットは形作られる。
ななこ以外にも、たくさんの人の手話を参考にしている。直接見ていた手話だけでなく、手話動画の字幕付け作業や手話ニュースを見ることを通して学んだ表現もある。
まだ足りない。私の手話はまだ「お手本」からずっと遠い。もっとよく見るんだ。

「3年でそんなに手話をできるなんて、すごい」
たどたどしい手話が賞賛する。
「大学生の時、全コンでビシバシ鍛えられたから、今の私があるんです」
まず私は手話を先に思い浮かべて、でもやっぱり、言うのをためらった。私の中で手話が縮こまる。
ろうみたいに、話してもいいんだろうか。私は本物ではないのに。
本物って何?

「have going to ってどんな意味?」
と聞かれたら、私はこう答えるだろう。
「’will have 過去分詞’ ならあるけど、’have going to’ という表現はないよ」
そうして文法は正しさを振りかざしては、存在したかもしれない言葉の数々を世界の隅へと追いやってしまう。
教えるって嫌な仕事だと今更ながら気づく。

私は手話のネイティブではない。英語のネイティブでもない。
なのに、手話を使って英語を教える。きれいに言葉にできない気持ち悪さ、心許なさを抱えながら。ちゃんと正しく形になっているのかな、私の言葉。
今日も私は、新しく手話と英語の表現を学んだ。貪欲にインプットし続ける。アウトプットされるのは、不完全な手話と不完全な英語。おぼつかないリズムに自分の言葉を乗せて、そのうちに、本物に近づけるだろうか。

難しいよねえ。
どれだけ勉強してもネイティブにはかなわないなあと思う。だから私は、教えるというよりも、生徒が自分で学べるような授業をしたらいいんだ。
言語は私の中を通り抜けていく。私なりの言葉になりかわって、ななこの手話や、その他多くの手話や英語のモデルのコピーが語られる。
主体性のない自分、中身のない自分。それでも私ができることを見つけられたような気がする、今。

学んでいる彼らの姿を見るのが好き。たどたどしい手話や、間違いだらけの英語が作り出す不協和音。そこから誰も知らずにいた音楽が生まれ出そうな気配がするから。

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