プレゼント

「なぜこれをくれたの?」
ああ、覚えている。 5年前に、確かに私はその本をあげたのだった。
①それをあげたら喜ぶと思った。
②あげても喜ばないだろうとわかっていてプレゼントした。
③自分のいらないものを処分するために人にあげた。
実際はそのどれでもない。「特に意味はないよ」と答えておいた。
何をあげたら喜んでくれるのか、わからなかったんだ。「誰かからもらうものなら、自分では選ばないものが嬉しいだろう」という基準でプレゼントを選んだ。私はそれで嬉しくても、相手もそうであるとは限らない。反省。
意味がわからないと、人からもらうプレゼントは受け入れがたいのかもしれない。そうだとしても、結局のところ意味なんて、受け取り手が勝手に想像するものじゃないか。自分の狭い心の中で善意や悪意や好意なんかを信じている。そうして、相手のことを理解しているかのように思っている。

人にプレゼントを選ぶときにも、相手への理解は重要になってくる。
プレゼントに失敗したくないので、今回はちゃんと希望を聞くことにした。アップルウォッチが欲しいんだって。
えー。
なぜそんなものが欲しいんだろう?
最初は納得いかなかった。アップルウォッチが欲しいなんて!本当に欲しいの?なんで?
変わった人だなあと思う。
商品としてあるからにはやっぱり需要があるんだろうな。常に情報に触れていたい気持ちは、私がスマホを置いて森の中を散歩するのと同じなのかもしれない。スマホを見ない方が落ち着く人もいれば、四六時中スマホを眺めている方が落ち着く人もいるのだろう。
「長く使えるものだし、いつも大事に身につけていられるから」
それを聞いて、「欲しいなら自分で買えば」と思っていた、私の心の片隅の冷淡さが払拭された。そっか。自分で買うのではなく、人からもらうプレゼントだから特別なものになるんだね。
未だアップルウォッチの価値はわからないままだけれど、最初の拒否反応にも似た受け入れ難さは、時とともに徐々に薄れていった。自分は自分だし、ひとはひとだ。プレゼントして喜んでくれるならそれでいいか。

思いかえせば自分も子供時代、妙なプレゼントを所望したものだった。「本当にこれが欲しいの?」って何度も念を押されながら、親にワニのぬいぐるみを買ってもらった。
本当はワニが欲しかったのではない。ヘビのぬいぐるみがよかった。引越しの時にいなくなってしまったヘビさん。緑色をしていて、3歳の私の首にマフラーのように巻くことができた…。
でもおもちゃ売り場には、あのヘビさんと同じものはなかった。その時から、私は自分が本当に欲しいものが何かわからない。誰かからプレゼントをもらうのは嬉しいけれど、「何が欲しい?」と聞かれるのは苦手だ。もらったらなんでも嬉しいと思う。嘘偽りなく「これが欲しい!」と言える人のことが、なんだか羨ましく思えたりする。

「この人、意味わからない」
と思う瞬間がある。そういうのはあまり口に出して言わない方がいいのだろう。「わからない」という言葉は多くの場合、否定的に捉えられる。「意味わからない」と言っている間は、まるで、わかろうとする努力を放棄してしまったように聞こえるよね。
でも私は相手を否定しているつもりではないよ。よくわからないから「なぜだろう?」と不思議に思うし、だから「面白いなあ」って感じる。「よくわからないけど、それでもいいな」とさえ思ってる。今すぐには理解できないことでも、時間をかけて向き合っているうちにひょっとしたらいつか謎は解けるかもしれない。そういう謎のひとつやふたつは、誰でも持っているものでしょう。
私の理解が及ばないことはいくらでもある。それでも相手にとっては意味のある、大切なことかもしれない。たとえプレゼントそのものにたいした意味がなかったとしてもね。

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