「ちょうどいい」はどこ?

毎日変わりばえしない植木鉢に水をあげ続けて、もう1か月になる。
まだ。
まだ。
まだ。

アボカドの種は、一向に芽を出さない。
たぶん、もう少し温かくなったら生えてくるかもしれない。ちょうどいい温度になるまで土の中でじっと待っている。

ついこの間まで寒かったのに、ここ最近はずいぶんと暑い日が続いている。かと思えば雨の翌日から、ぐっと冷え込んだ。
ちょうどいい温度ってどれくらいなんだろう?
10度では肌寒くて、 20度まで上がればもう暑い。
同じ1日の中でも温度差によって感じ方は変わる。朝は上着がいるけれど、昼頃に気温が上がると、もう半袖でもいいくらいだ。暑い日には涼しい風が心地よく感じるし、寒い日には温かいスープが身に染みる。
人によっても快適温度は異なる。「ちょうどいい」はその都度変わるもののようだ。

その点、植物は気楽でいいなあ。ちょうどいい温度がぴたりとブレなく決まっている。あれこれ迷わないでいい。ただ待っているだけで春が来て、芽を出すタイミングが自ずとやってくる。
でも人間はそういうわけにはいかない。生まれてきてしまったら、どんなに寒くても暑くてもその環境で生きていかなければいけないんだ。

アボカドと違って、人間は環境に適応するための術をたくさん持っている。例えば、上着を着たり脱いだりして調整する。
もっと生きやすいように環境を変えることができる。エアコンをつけてちょうどいい温度に調整する。実際、夏場にはクーラーなしではもう生きていけない気がするほどだ。
あるいは、より良い環境を求めて移動することもできる。アボカドと違って人間は足を持っている。寒すぎる場所に生まれてしまったのなら、もっと温かい場所へと移動すればいい。
そして、生まれてきた環境に、ある程度順応することができる。寒いのを我慢し続けるうちにだんだん平気になっていく。シベリアで経験した極寒もそうだった。慣れてしまえば、マイナス15度なんて温かい。

そうして考えてみると、何が一番自然な状態なのか、よくわからなくなってくる。
暑さ寒さを耐え抜いて、「ちょうどいい」と感じるように自らの感覚を変えること。
それとも植物のように、「ちょうどいい」温度を変えないこと。
変わらないものなどない。環境が変われば生きている体も変化する。変化は自然なことなのかもしれない。
でも無理して合わせる必要もないと思う。無理なことは無理だ。

いつかそのうち、ちょうどいい温度を見つけられなくなってしまうのではないかって、心配なんだ。
我慢し続けた結果、ちょうどいい温度を忘れてしまうかもしれない。飛行機に乗れば簡単に季節を逆転することができる。砂漠と雪原の距離はもはや問題でなくなった。
いずれ春と秋は消え、暑いか寒いかだけになってしまう。そんな気もする。だって、すぐにエアコンが、いつも一定の「ちょうどいい温度」に調整してしまうからね。エアコンをつけるたびに、体が「ちょうどいい」と感じる温度の幅はどんどん狭まっていく。

何がちょうど良くて、何がそうでないかなんてどうやって決まるのだろう。
アボカドみたいにちょうどいい温度がぴったり決まっているのなら、いっそ楽なのにな。環境に合わせようとしている限り、落ち着かないしエネルギーも使う。
無理なことは無理だときっぱり諦めて、より良い環境へと移る勇気も時には必要なのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。