練習練習

仕方のないことだとわかっているけれど、悲しくなるんだ。

指示を聞いて技を出す練習が苦手だ。
「ワン」ストレートパンチ。
「ツー」ジャブ。
「ワンツー」ジャブ、ストレート。
「ワンツークロス」ジャブ、ストレートにさらにもう一発。
「ダブル」4連発パンチ。
耳で聞いて素早く動く、反射神経を鍛える練習だ。周りで何組ものペアがボコボコ一斉に殴る音がしている。私だけ動き出せない。呪縛にあったみたいに動けない。
身体中、悲しさでいっぱいになっている。聞くフリだけして適当にパンチしておけばいいんだろうけど、聞かなくちゃと思うから悲しくなる。

何度か経験した後に考えてみた。別に同じ場所で続ける必要はないんじゃないかって。
マンツーマンで練習してくれるところの方が、もしかしたら私には合っているのかもしれない。
でも、悲しくなるのは練習のほんの一部分で、他の時は割と楽しくやれているよ。うまくパンチやキックが(ミットに)入ると気分がいいし、体幹を鍛えて受け止め方が上達するとやっぱり嬉しいものだ。「練習の効果を実感していますか?」というアンケートがあったら(そんなの一度もきたことはないけれど)、迷うことなくイエスだ。練習相手の存在も励みになる。顔見知りも増えた。
ちょっとくらい嫌なことがあるからって、いい面も丸ごと投げ出して他所へ移ってしまうことは考えられない。
もし嫌な気分になることがあれば、それ以上にたくさん楽しめばいい。
そもそも私は強くなりたいからここで練習しているのだ。「メンタルを強くしたい」と決めたのなら、いいことも嫌なことも含めて、自分の血肉とするために努力していかなければいけない。
…自分でもむかつくくらいストイックだ。
やめたやめた。そんなこといって誤魔化しても、誤魔化しようなく嫌なことは嫌だ。

「今日は何をやったの?」
家に帰るといつも聞かれる。
「ラウンドキックをやったよ」
「低い位置のパンチを防いでカウンターする方法を習ったよ」
「後ろに下がりながらフックを繰り出す練習したよ」
「お腹にナイフを刺されそうになった時に防ぐ方法を習ったよ」
「持ち上げられて誘拐される時の振り解き方をやったよ」
「十字固め教えてもらった」
「壁際で首を絞められた時に解除する方法」
こうやって並べてみるとまあ、色々やってるなあ。練習を重ねるごとに強くなれた気がする。
うまくできなかった動きはもう一度イメトレしてみる。ミットを持って相手してくれる人がいないので、形だけ。
「踊ってるの?」なんて言われるけど、違うよ。ナイフを持った手をこう、捻り上げているところなんだって。

ウォーミングアップもいれて1時間の練習は毎回真剣だ。ペアでお互い役を入れ替えながら練習する。
アタッカーになれば殴りかかるし首を絞める(もちろん加減はするけどできるだけ本気で)。首を絞める練習をしているのではないよ。上手い人に技をかけられると、それだけで勉強になる。殴られる側になれば一生懸命ガードする。
気を抜いて練習すると痛い目にあう。うっかりパンチが当たったりなんかすると痛いし、当たらなくてもミットに衝撃が結構くる。腹筋に力を入れて受ける。床の上で寝技をやった日には、膝や膝が紫のあざだらけになっている。
怖くても決して目をつぶってはいけない。見なければやられる。しっかり目を開いて見て、ガードする。
できる限り生き残る可能性を上げるための技だ。真剣勝負。

強い人はかっこいい。先生たちを見ているとそう思う。突然目の前にナイフを持った敵が現れても、落ち着いて対処するに違いない。
こうやって練習したことが、いつかどこかで役に立つ日がくるのだろうか。殴り合いとか誘拐なんてあまりにも日常からかけ離れている。だから笑って練習していられる。
強くなってどうこうしたいという目的などない。飾り物の刀みたいに、このまま一生活用することのないまま終わってしまってもいいんだ。
テクニックを身につけるために努力している時が一番幸せなのだと思う。一生懸命に打ち込んでいる時間が、やっぱり楽しいんだろうな。純粋に体を動かすのが気持ちいい。

悲しいとか、怖いという気持ちはどうしようもない。
でも実際は、「悲しい」も「怖い」も私が見ている世界の一部分だけのことで、全体的に見れば楽しいことの方が多いし怖くても大丈夫な時もある。怖くても体さえ動くことができれば大丈夫になる。
私がするべきなのは、悲しくない部分、大丈夫な部分をもっと広げていくことだ。仕方がないと落ち込む暇があるなら、楽しいと思える瞬間をもっともっと探そう。体が勝手に動くまで繰り返し練習しよう。

最近はペアの相手がマスクをとってくれるから、やりやすくなった。
口の形が見える。ワンツーとダブルでは唇がはっきり違う形に動くから、判断して動くことができる。
マスクがない方がやっぱりいいな。
世の中から障害物や嫌なことがすっかりなくなってしまったら、きっと平穏な日常に感謝する心を忘れてしまう。多少嫌なことがあった方がいい。悔しかったら余計練習するんだ。

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