入社以来、何度人の名前を間違えたか知れない。だって毎日毎日、おびただしい数の名前を目にするんだもの。
多くの人の名前を扱うことでは学校でも同じだけれど、最低でも35人分、クラスの子たちから覚え始めればいい。しかし会社の部署はそういう仕組みになってはいない。所属部署の皆さまの名前を覚えるのを待たずして、他部署の人からあれやこれやと依頼が来る。顔も知らない、しかし同じ建物内にいる誰かに向けて、名前をたよりにメールを出すのだ。
例えば、田中さんや伊藤さんや加藤さん。苗字が同じ人が複数人いる。上の名前を覚えるのでさえいっぱいいっぱいなのに、下の名前まで区別するとなると難易度が格段に上がる。
初めて見る外国語の単語を辞書を引いて調べるみたいに、社員リストをいちいち開いて確認する。この部署の田中さんはこの人だときちんと一致させてからでなくては、全然違う人にメールを送ってしまう。
漢字を間違える。その度に自分の信用が失われていくような気がして怖い。
入力するのはまだ良くて、手書きだとよけい神経を使う。線が1本多いだけで、ゴマ粒みたいな点がつくかつかないかで、文字は不完全になってしまう。
できれば名前なんか書いたり入力したりせずにすませたいけれど、そうも言っていられない。間違っていたら黙っていないで、指摘してくださいね。そしたら、次は間違えないようにと気をつけるから。
変わった名前、ありふれた名前、苗字とケンカしているような名前。いろいろある。どんな名前であれ、文字である以上、なんとなく印象を持ってしまう。会ったことないから人柄や人相はもちろんわからない。勝手な、名前だけの印象。
「なんか見たことあるなこの名前」と思ったら、数日前にも同じ名前を目にしていた。この間は退職者のデータを整理する仕事があって、この日は退職者に社内報を送る準備をしていた。なるほど、同じ名前があるわけだ。
封筒に宛名シールを貼り続けていると、横から誰か覗き込んで、「懐かしい名前」と言う。年配の社員さんにとっては、思い出ある人の名前だったみたい。
名前を覚えるのは単語を覚えるのとは違う。単語には普遍的な意味がある。名詞ならそのままものの名前になる。
「犬」は世界中にたくさんいるけれど、私が呼ぶ「レモン」という犬はたった1匹しかいない。ほらこうやって名前で出せば、レモンのことを知らないあなたにも伝わるでしょう。レモンという果物と同じ名を持つ犬がどこかにいて、飼い主からうんと可愛がられているんだと。
単語は個性を持たないけれど、名前を持つものはそれぞれ性格があり、好き嫌いがあり、他の誰かとは独立した感情を持っている。名前を持つ者は、世界中で唯一の存在なのだ。
名前を正確に扱うというのは、その人を他と区別して特別に扱うということでもある。「特別に」という言葉を使ったけれど、誰しも日常的に行なっている。「あの人」と認識した瞬間から、その人に関する記憶や情報が降り積もっていく。名前を知っている人は、名前を知らないその他大勢と違って特別なのだ。
「あの人」には必ず名前がある。なぜならこんなにたくさん人間が暮らしている中で、その中のひとりである「あの人」のことを誰かとしゃべろうと思ったら、名前がなくては不便だから。
「初めに言葉ありき」の説に従うならば、名前がなければ人は存在しないも同然だ。顔を知らなくても会ったことがなくてもメールを送ることができるのは、名前のおかげなんだね。
漢字が違っていたり、他の人と間違えたりするのは、大変失礼なことだと認識している。
名前の間違いにこれほどまで固執するのは、名前というものが個人の核を担っているからなのだろう。名前というラベルをくっつけられて、人は他人と区別される。
大抵の日本人なら2文字から6文字程度の名前を持つ。短い情報だからこそ、正確に取り扱わなくてはいけない。1文字でも違っていたらそれは別人だ。