ぼんやり生きてる場合じゃないぞ

10年後の暮らしを考える。
あと10年したら、もっと生きやすい社会に変わっているだろうか。

10年前よりも今の方が良くなったことは、確かにあると思うんだ。トイレが綺麗になったり、電車に電光掲示板や英語のアナウンスがついたり、至る所で耳マークと「筆談します」の表示がされていたりする。障害者差別を禁止する法律ができた。障害に対する理解は昔よりも進んだのではないかと思う。
様々なハラスメントに対する啓発も、ここ10年でずっと進んだはずだ。学校では体罰がいけないことになった。職場では採用や昇進について性差で差別してはいけないことになった。
働き方改革が進んだ。以前のように(どんな職場だったのか直接見てきたわけではないが)、過労死させるまで長時間労働をさせる企業には人が集まらないようになる。少なくとも、今私が働いている職場は定時で帰れるし休憩時間も保証されている。それがどんどん当たり前になって、いつかは学校もホワイトになると期待したい。

一方で、将来が不安になる要素も増えた気がする。
10年前よりも温暖化が進んだ。SDGsやクールビズが推奨される一方で、毎年のように猛暑記録が更新される。
10年前よりも少子高齢化が進んだ。年金受給年齢と退職年齢が後退していく。
子どもを望まない若者が増えた。子どもが欲しいなと思っても、お金もかかるし時間もない。授業料の無償化や育休制度があったとしても、自分の時間がなくなってしまうのが嫌だという気持ちはよくわかる。
最も不安なのは、10年先の未来でさえ見通しがつかないことだ。AIが進歩した分、人間の仕事が奪われるとか、東日本大震災で「未曾有」の損害を被ったとか、コロナの感染拡大でマスク生活を余儀なくされたとか、高校生だった時の私にどうして予測できただろうか。
一体どうなることかと思いながら月日は過ぎて、あっという間に10年が過ぎ去ってしまうんだろうな。その時にはもう取り返しがつかなくなる。そんな気もする。

ぼんやり生きているから、いけない。早く何か打つ手を打たなくては。
かと言ってそう焦る気持ちにもならない。地震が起きてもウイルスが蔓延してもどうせなるようにしかならないんだ。だってほら今、ちゃんと生活できているじゃないか。
毎日毎日マスクをつけていると息苦しさを忘れてしまうように、普段、生きづらさは意識の端に追いやられている。そうでなければ生きていけないんだと思う。
どうしたらいいのかわからないというのが本当のところだ。わからないことに対しては、考えることさえ億劫になる。ただ、このままではダメだとだけはわかっている。

面白い本を読んだ。
内田樹『生きづらさについて考える』
まずタイトルからして驚きだった。こういう本が売れるからには、今の世の中は、どんな人にも生きづらいようになっているのだろう。そして昔はそうでもなかったのかもしれない、ということについて考えさせられた。
戦後、バブル期、バブル崩壊後、それぞれの世代で「物語」があったと知った。
終戦を知っている人たちは「敗けてよかった」という気分を共有していた。敗戦国となったにせよ、もう死なないですむ。戦争が終わったことがただ嬉しかった。
高度経済成長期には夢があった。誰も彼も一生懸命に働いていた。著しい経済成長があればいつか米国への従属を克服できるはずだという希望が、その根底にあったのかもしれない。
バブルが弾けるのと同時に、働く意欲が失われた。真面目に働いても暮らしが良くなる確証が失われた。ここから時代の気分は暗くなる。
今の日本の暗さの原因を、内田さんは「貧乏くさくなった」からだと言っている。昔は貧乏だったけど、まだ明るさがあった。団塊の世代、1クラス50人超の中学校でも、みんな機嫌良く暮らしていた。ちょっと信じられないな。現在の中学校の35人でさえ多すぎると感じるのに。不登校に虐待、貧困、発達障害、誰もが問題を抱えていて、とてもひとりひとりに目を向けていられない。
この、今の世の中の気が滅入るような感じ、その正体は貧乏くささだったのか。どんにたくさんものがあってもお金があっても、ケチな心は救われない。

「大正」「昭和」という年号で区切られた時代にそれぞれ物語があったのだ。風が吹けば桶屋が儲かるの如く物語は実は繋がっている。「敗戦国」という病気をいつまでも引きずっている日本。戦後70年しても治らない病気というのは相当深刻だ。
じゃあ「平成」は?
内田さんは、平成とはどういう時代だったかがわかるのはまだ何十年も先だという。平成の途中に生まれた私には見えるべくもない。
時代の物語は差し置いて、ちっぽけな一個人の人生を持て余している。
世の中のことが見えていない、見ようともしない私にも、物語があった。それに気づいたのは物語がうまく機能しなくなった後、つまりその物語を生きることを諦めてからだ。
障害を克服しようと頑張ったけれど、挫折した。自分との戦いに疲れてしまった。その失敗からどう進んでいくか。何を目指していくか。
物語の中にいる時は夢を見ているようなもので、目が覚めてからでなければどんな物語を生きているかなんて見えない。

マルクスを読むことについても、内田さんは書かれている。マルクス主義を擁護しているのではなくて、マルクスの文体を評価していた。読むと「脳が活性化する」。
それはまさに、私が内田さんの本を読んだ時に感じる感覚だ。じゃあ、『共産党宣言』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を読んだらどんな感じがするんだろう。気になって居ても立っても居られない気分だ。

『生きづらさについて考える』を読んでいる間、頭の中でこれまで読んだり見たり経験したりしたことが想起された。能なんて稽古どころか見たことすらないけれど、ボクシングをやる時の体の使い方やヨガをやる時の呼吸の仕方を知っているから、それを糸口にこんな感じなのかなと想像する。
同様に、終戦後やバブル期の世相がどんなものか見たことはなくても、これまで読んだ本の中に描かれた風景を思い浮かべるとなんとなく腑に落ちるものがある。戦中から戦争直後のことなら、『お菓子放浪記』や『天皇の料理番』。お菓子と料理、どちらも食に関する話だけど、食べ物のことを思うとき、一番ひもじくなる。殴ったりするのが当たり前なんて、今じゃもう考えられない。
高度経済成長期なら『動物記』『赤道 星降る夜』『僕たちはみんな大人になれなかった』。家族も恋人も自分の生活も犠牲にして、がむしゃらに働いていた。そうしてまで働かないといけなかった。
時代の気分というのは、小説中で主題として描かれるわけではない。単なる風景としてさりげなく描かれている。そういうのが、読んだ時に違和感となっていつまでも残るものだ。今の時代ならありえないなって。
内田さんだって同じことをしているはずだ。本の中で、その時代の映画や歌を例に引いている。私の知らないものばかりだけど。

本を読むって大事なことだと改めて思った。
生きていることに虚しくなった時は本を読もう。無力感や喪失感は、読んだもので埋められる。
自分の物語を、この時代の物語を上手く生きていこうと思ったら、まず読むことから始めるべきだ。読んだことは目に見えないところで蓄積する。
内田さんは何度も同じことを繰り返し言っている。『寝ながら読める構造主義』『下流志向』『街場の教育論』
私は頭があまりよくないので、何度も読まないと気がつかないのだった。
できるだけ遠い時代、遠い地域の文学を読んでみるのがいい。経済学が手っ取り早い解答を見つけられないでいる時に、人文学はずっと広い範囲でものを考えられる。
考えること。そこには可能性がある。まるきり関連のない物事を出来るだけ多く並べられた方が、突破口となるアイディアを閃く可能性が上がる。
内田さんの言っていることがなんとなく、わかってきた。

10年後、今よりもっと賢くなっていたい。少なくとも、もう少し語彙を増やしたいものだ。いい本に出会うと恥ずかしくなる。
冒頭にあげたここ10年のイメージは、今私が思いつく限りのことだ。政治がどうなるのか、ロシアとウクライナの対立がどうなるのか、コロナが残した爪痕がどんな形で残るのか、そんなことはさっぱり念頭にない。プーチンが何を考えてるのかなんて知らないよ。ロシアに留学した人間としてはもっと気にかけてあげなくちゃいけないと思うのに。
今日から心を入れ替えて生きていこう。とりあえず10年間を念頭におくけれど、いずれはもっと長い目で世の中を見ていきたい。1000年、2000年の歴史の果てに今がある。

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