死んだらどうなる?

「またレモンに会いに行かなきゃ」と私が言うと、妹は頷いた。「うん、そのうち死んじゃう」
そんなこと言わないでよ。

レモンが死んじゃう。
考えただけで目から水がじゃあじゃあ出る。

レモンが死んじゃう。
どうしてこんなに悲しいのか。

レモンが死んでしまう前に、考えておかなければいけないと思った。なぜ、死について考えると悲しくなるのか。

自分が死ぬことを考えても別に悲しくはない。いつかは死ぬんだろうなと思いながら生きている。
でも、「死にたい」と思う時、悲しくなる。

レモンもいつかは死んでしまう。おそらく近いうちに。
ずっと一緒にいたいんだ。お別れなんてしたくない。

「死」は、「命の終わり」なのか。死んでしまったら、レモンは消えて無くなるのか。

ダニエルは言った。「それは自然なことなんだよ」(葉っぱのフレディ)
日が昇って沈むことや、燃料を使い切って火が消えることや、春になって氷が解けることと同じように、生きているものは死ぬ。だから怖がらなくてもいいよとダニエルはフレディに言う。
それは自然なことなんだ。死んだらレモンは燃やされて、風に溶けて、土に還って、自然の一部になる。決して消えてなくなるわけではないんだ。
物質的な意味では消えることはない。でも、燃やされて土に還ったら、もうそれはレモンではない。レモンの姿で、もう動くことはない。温かい体や、毛皮の手触りは失われてしまう。

命には「終わり」はあっても、消えてなくなることはないんじゃないかな。ただ、目に見えなくなるだけ。
「本当に大切なものは目には見えない」(星の王子さま)
私がレモンのことを大切に想っている限り、レモンが生きていた事実に変わりはない。
私が悲しくてたまらないのは、もうレモンの世界に招き入れてもらえないことだ。レモンの温かさとか柔らかな手触りや、猫みたいなツンデレな性格や、雷を怖がるところ、そういうもの全て、私の手の届かないところへ行ってしまう。

人生は、一冊の本のようなもので、「死」とは、それが完結することだ。本じゃなくても、映像とかデータメモリのようなものと言い換えてもいい。
記憶の積み重ねで一つ一つの人生はできている。目を開けて、また閉じて、眠って起きて、その度にページがめくられていく。更新されていく。開かれているページが「現在」、もう書き終えたページが「過去」。まだ何も書かれていないのが、「未来」。一人一人違う物語がそこには書き込まれていく。
言葉で記憶されることもあるだろうし、絵本のように画像の記憶もある。忘れてしまったことも、空白ばかりのページとして残る。犬なら匂いとか感覚とかそういう情報でできているかもしれない。
そして、死んだら本の最後のページが閉じられる。誰にも読めなくなってしまうけれど、レモンの物語はどこかに存在し続けると思うんだ。姿の見えない星のように、あるいは他と切り離された宇宙のように、レモンの世界だけが静かに漂っている。
命を終えた魂は、完結した物語の中で眠っているんじゃないか。幸せな記憶がたくさんあれば、幸せな物語を夢見るだろうし、反対に悲しいことばかりだったら、悲しい夢を見る。これは私の想像だけど。
完結した物語は立派だ。幸せだったかそうでなかったかに関わらず、命の長短にも関係なく、最後のページまでたどり着いたということは賞賛に値する。
「生まれてきておめでとう」
「生きていてくれてありがとう」

私の本の中にも、レモンの姿が描かれている。私の人生の半分以上の時間を、レモンは生きてきた。
思い出の中で走っていたり、吠えていたり、眠っていたり、いじけていたりする。抱き上げた時の体の重みも、不意に触れた時の鼻の冷たさも、爪で引っ掻かれた時の痛みも、私は覚えている。犬のくせに引っ掻いてくる。
さよならした後も、どうかずっとそこにいてね。私が自分の本を完結させる時まで、レモンのことは忘れない。

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