一本の毛、魚の骨

小学校3年生の頃の、忘れられない記憶がある。

その頃の私は、毎日友達とごっこ遊びをしていた。大抵はポケモンごっこかナルトごっこ、もののけごっこ、あるいはドラゴンボールごっこで、それぞれ好きなキャラクターを選んで役を演じる遊びだった。自分たちの話の中では常に無敵になれた。ロケット団から上手に逃げ、オレンの実やモモンの実をかじり、手裏剣やクナイを投げ、エボシをやっつけ、カメハメ派で敵をコテンパンに倒した。休み時間や帰り道、ひたすら喋り続けて物語を作ったものだ。

事件が起きたその日は、オオカミごっこをしていた。
図書室で見つけた、『風の森のユイ』という本が友達と私の間でブームになっていた。物語の中に出てくる強くてかっこいいオオカミに憧れた。
給食が終わった後のお昼休みだったと思う。私は教室を四つん這いになって走り回っていた。四つ足で走るのにはコツがいる。膝をついているよりもお尻を上げた状態で走る方が速い。
子どもの頃は本気になって四足歩行の練習をしたものだ。練習をすればいつか本物のオオカミになれると無邪気に信じていた。
子どもっぽい、と今では呆れてしまう。反面、ずっと子どものままでいられたら良かったのになとも思う。当時の私たちは真剣にオオカミになろうと努力していた。あのまま信じ続けていたら、本当にオオカミになれたのではないかって、心のどこかでまだそんなことを思っている。

突然強い力で掴まれたと思ったら、顔に平手打ちが飛んできた。
担任の女の先生は、4クラスある中で一番怖い先生だと恐れられていた。ぎょろっとした目にいつもブルーのアイシャドーをし、髪はメデューサのようにうねっていた。列に並ぶのが嫌いなやんちゃな男の子の耳を引っ張って、毎日のように怒っていた。
自分が叱られた時はそれはそれはびっくりした。私は決して手を上げられるような子どもではなかったし、その時点で自分が悪いことをしたとはつゆほども疑わなかった。
「私たちは人間です!犬みたいに走り回って、恥ずかしい!二本足で歩きなさい」
先生はわざわざみんなの前に私を引っ張っていき、叱りつけた。そのことはいたく私の心を傷つけた。
犬じゃないもん、オオカミだもん。
結構だ。人間なんかやめてやる!
と、思ったことは言葉に出されないまま、以後その先生を見るたびに私の心の中で燻り続けた。
それ以降私は四つ足で走らなくなった。

なぜ今そんなことを思い出したのか?
たぶん、殴られた衝撃のせいだと思う。

オオカミを目指していた少女は、十数年後、ジムに通い護身術を習っている。
先週は脇腹を狙った低い位置での左フックを練習していた。ペアの相手は私よりも少し背が低い、けれども数倍強い先輩だった。脇腹の位置で構えたミットから衝撃がビリビリ伝わってくる。
たぶん私が腹を引っ込めるとか頭を前に突き出すとか妙な動きをしたのだと思う。顔の真ん中に一発飛んできた。痺れたようになって鼻の感覚がなかった。痛かったと思う。ちょろっと涙がこぼれた。
悪いのはぼんやりしていた私だ。なのに先輩は「ごめんねごめんね」と何度も謝った。幸い大事には至らなかった。少し待てば鼻の感覚は元通りになったし、鼻血すら出なかった。
これは運悪くたまたま起きた事故だ。先輩はめちゃくちゃいい人だと私はよく知っている。本当に優しい人で、うっかり殴ってしまった直後も、ちゃんと私が笑顔を取り戻せるように気遣いのできる人だ。でもなぜだろう。
「もしかして、心の底では、私のことを殴りたいと思っていたんじゃないか」
初めはふっと吹けば飛んでいくような、一本の毛程に些細な疑いだった。一度気にしてしまうと魚の骨みたいに刺さって取れない。
自分でも自分のことを時々殴りたくなるのだ。ヘラヘラ笑ってんじゃないぞ、もっと気を引き締めろ、って。真剣にやれよ、って。
今回のことはいい薬になったと考えよう。心構えがなってなかった。いつどこから攻撃されてもいいように、本気で練習しよう。

「オオカミになりたい」と言っていたあの頃みたいな真剣さを、取り戻したいと願っている。

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